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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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「寺西大明神碑」②~「のりしろ散歩~庭塚(在庭坂)探索の中心話題から外れて」

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 これが、皇大神神社境内拝殿右手に建つ「寺西大明神」の石塔だ。
 右側に「文政5士年(1822)」、左側に「○3月吉日」が読める。

 「寺西大明神碑」が建立された経緯は、文政元年(1818)8月の須川が変水することとかかわることが「福島市史」の「庭塚(在庭坂・二子塚)」の項で解説される。
 文政元年(1818)8月、在庭坂村・二子塚の用水である須川が変水して、田地が年々地焼・根腐れをおこす被害が続出し、在庭坂・二子塚の両村では、協議のうえ、在庭坂地内に新規に堰掘割りの工事を行う事を取り極め、まず文政2年目洗川および鳥川からの引水を桑折代官寺西重次郎に願い出た。
さらに文政6年12月、在庭坂村三役は、桑折代官西重次郎に詳細な「在庭坂村・二子塚村 根腐除・高湯尻悪水落箱戸井自普請目録見帳」を提出した。
 寺西代官は、この工事に対して文政7年2月に最初に許可を与えたという。それが称えられる功績のようだ。
 しかし、建立の年代とちょっと合わない。許可が与えられる2年前にこの碑は建立されているようだが、これは、御愛嬌かな。
 「寺西大明神碑」であれっと思ったのは、その事ではない。
 二子塚村には溝口大明神碑も建っていることとのかかわりだ。解説の続きに、こちらの碑は在庭坂村と二子塚村の両村民が建立したとの説明。
 当時、桑折代官の支配下にあった在庭坂村と、新発田藩分領八島田陣屋の支配下にあった二子塚村の名主・組頭・百姓代が世話人として名をつらね、両村惣百姓によって建碑されたものと紹介される。
 高さは台座の自然石をふくめて約2.5mの堂々たるもので、寺西代官の顕彰碑のなかでは、最もりっぱなものなのだそうだ。

 ただ、碑の建立だけでなく、以下のような分水問題自体もいろいろあって、単純な事ではなさそうだ。
 文政11年(1828)には二つの村で分水問題が起こり、文政13年閏3月に規定書を取り決めたとのこと。また、万延元年(1860)9月、在庭坂村が損置起返しを理由に須川の水源不動滝から新規の掘割を行って引水したことに端を発した紛争が福島領の8か村がからむ紛争に発展するようだ。
 これ等は、先に「野田村郷土誌」をもとに堰について整理したこととも複雑にかかわりを持ってくるのだろうと思う。
by shingen1948 | 2014-08-10 10:53 | ◎ 水 | Comments(0)