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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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のりしろ散歩~奥羽本線~庭坂事件③

 庭坂駅にふれて整理するのは、「福島の建築 ⑬」で、煉瓦製油庫の建物への興味で立ち寄った時だ。駅舎全体としてどこか懐かしい雰囲気が漂っているとした。この時点では、福島を中心とした視点で、福島駅を中心駅とした見え方をしていることが分かる。
 http://kazenoshin.exblog.jp/9828468/
 しかし、奥羽本線の管轄は、東北本線とは別の新潟鉄道局管轄のようで、その機関区が庭坂になっていたとのことであり、当時は庭坂駅もまた奥羽本線の中心的な役割を担った駅だったということのようなのだ。
 「庭坂事件を考える」では、この事について以下のように解説する。
 敗戦後1946年から1950年夏までの間、全国の国鉄は同じ名称の9つの鉄道局(東京・名古屋・大阪・広島・四国・門司・新潟・仙台・札幌)によって管理され、その下に管理部と工機部(1949.6.1現在では49管理部、27工機部)が置かれていた。東北地方では、奥羽山脈の東側(東北線側)が仙台鉄道局(仙鉄局)、西側(奥羽線側)が新潟鉄道局(新鉄局)であったが、例外的に奥羽本線の南端部分(福島県内)だけは新鉄局管内になっていた。このため、奥羽山脈横断の西口にあたる米沢と東口にあたる庭坂には、それぞれ新鉄局山形管理部の機関区(機関車・乗務員を管理)が置かれていた。このことが、わずかに7キロ(福島~庭坂間)を挟んで、福島機関区(仙鉄局管内)とは別の庭坂機関区(新鉄局管内)が置かれた理由である。
a0087378_8585584.jpg この庭坂機関区が駅の北側とのことなので、煉瓦製油庫の建物のあたりから北側付近なのだろうということだ。それで、今回も油庫を撮っているのだが、そこから駅の北側付近の広い敷地が少し写っている部分を切り取って張り付けて見た。

 ここに新潟鉄道局の庭坂機関区があったことのプライドが、「殉職之碑」を建てた発起人や実務者が庭坂機関区であることや庭坂村長さんも名を連ねていることとがかかわっているのだろうと思う。

 「殉職之碑誌」では、「事故の原因は今だに解明されておりません」とするのだが、事故の原因は「現場ではカーブ外(右)側のレールの継目板が外され、犬釘が抜かれ、レールが内側にずらされていた」ためであることまでは客観的な事実のようだ。分からないのは、その事件性だろう。ただ、この事故を「庭坂事件」と呼称される事自体、単なる事故でない事(つまりは事件性)を暗黙に了解している事を示しているのだと思う。
 「庭坂事件を考える」では、副題が-翌年の松川事件に繋がる謀略事件―とあるように、庭坂事件と松川事件の動機的な関連性を考察する。
 その労働運動つながりで推論する根拠の一つとして庭坂機関区(新鉄局管内)が以下のようにかかわるという事でもあるようだ。
 1946.3庭坂機関区従業員労働組合が結成され、当局に要求書を提出して団体交渉を行うなど、山形管理部内での主導権を強めていった。彼らがともかくも労働組合らしい道に進み得たのは、福島県における労働運動の全県的な結集を目指す左右の対抗的潮流の動きに直接触れる中で、自らが進むべき進路を選択する機会を得たことの結果であった。このように、極めて穏健といわれた新鉄局の労働組合の中で、庭坂機関区の労働組合は確かに最も実質を備えていた。そして、この力を押さえ込もうとしたのが庭坂事件であったのかも知れない。

by shingen1948 | 2014-07-05 09:02 | ◎ 松川事件を歩く | Comments(0)