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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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のりしろ散歩~奥羽本線~庭坂事件②

のりしろ散歩~奥羽本線~庭坂事件②_a0087378_1110417.jpg これは、庭坂の大カーブを通過する新しいデザインの新幹線でしかないかもしれないが、庭坂事件の現場を意識して撮った積り。
 右手の小屋にかかって写っている木の付近が殉職碑が建つあたりで、新幹線の先端が、大堀川鉄道橋付近だ。
 「庭坂事件を考える」で以下のように解説される「庭坂事件」は、この辺りで起きたというこのようだ。
 1948年4月27日午前0時4分ごろ、いまだ単線であった奥羽本線赤岩~庭坂間(福島起点8キロ777メートル、庭坂村上戸表、通称:高堤防)で、青森発奥羽本線回り上り上野行き第402急行旅客列車(先頭機関車・郵便車・小荷物車に続いて、客車7両には定員の2倍を超える1250人が乗車)が脱線転覆し、機関士・機関助士・技工(闇米捜索を逃れるためにたまたま機関車に便乗していた)の3人が死亡し、荷物車掌が負傷した。
 庭坂事件では、転覆した列車が「青森発奥羽本線回り上り上野行き第402急行旅客列車」ということだが、現在はこの運行は不可能であり、イメージが持ちにくい。

 現在は、この辺りの奥羽本線は山形線というイメージが強い。加えて、ここを山形新幹線が走るため従来の狭軌から標準軌に改軌されたのだが、それに伴ってこの山形線の普通列車は標準軌専用の車両が使用されるようになったとのことだ。
 したがって、奥羽本線の新庄駅以北に乗り入れることはできない。また、東北本線や仙山線などの他線の列車や貨物列車が山形線に乗り入れることもできないという状況だ。

 しかし、当時は奥羽本線回り青森~上野間には2本の直通列車(急行1・普通1)が運航されていたということだ。
 「庭坂事件を考える―翌年の松川事件に繋がる謀略事件―【福島大学名誉教授伊部正之】」では、このことと当時の食糧難という社会情勢を加えてその状況を以下のように説明する。
 (この奥羽本線が通過する)山形や秋田が、有数の闇米供給地であり、食糧管理法の統制を逃れて闇米を確保すべく、多くの人たちがこの直通(乗り換えなしで東京に行ける)の闇米列車(買出列車)に殺到していた。
 碑文の「買出人等1200余名を乗せて走行」ともかかわるようだ。更には、「脱線転覆の為職に殉ず」の「技工山岸孝19歳」ともかかわるらしい。以下のように説明される。
 顔見知りの乗務員に頼んでトラの子の闇米を運転室に預かってもらう国鉄職員もいた。この事件で犠牲となった技工の山岸孝はもちろん乗務員ではなく、非番(勤務なし)を利用して米の買出しに行き、摘発を逃れるために運転室に潜り込むことに成功していたが故の悲劇であった。
 この事件では運転室にいらっしゃった方々が亡くなるのだが、「庭坂事件を考える」は、逆行運転が禍したのではないかと推測している。
 トンネルの多い山脈越え用に特別に作られたSL4110型機関車の場合、機関車の煤煙が運転室を襲うのを避けるために、機関車を後向き(煙突が後になる)にした逆行運転が行われ、そのため先頭になった運転室が真っ先に湿田に突っ込む形になった。現場ではカーブ外(右)側のレールの継目板が外され、犬釘が抜かれ、レールが内側にずらされていた。このため、機関車と郵便車が右側の築堤下に脱線転覆し、小荷物車は築堤の横腹に線路と直角に脱線停止し、客車1両は左側に45度傾きながらも、たまたま電化工事のために立てたばかりの電柱に引っ掛かる形で転覆を免れ、これに続く1両も左に脱線していた。
 ここに描かれる事故の状況の詳細部分は、庭坂の大カーブであることが庭坂事件の起きる要因でもあったということも意味しているように思う。
 
by shingen1948 | 2014-07-04 11:18 | ◎ 松川事件を歩く | Comments(0)