人気ブログランキング |

地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31

のりしろ散歩~「湯町温泉」再整理

 湯町温泉については何度か整理している。
 その中で、今回は、散歩を通して高湯温泉から湯町温泉までの引湯の経路が体感的に実感できたことに基づいていの整理しなおしをしている。
 もう一つは、手に取れたこの湯町温泉の見え方にかかわる資料の変遷がある。
 最初は、「湯町温泉」を紹介する資料をもとに、「湯町温泉」跡そのものを散歩で確かめた。それが、「庭坂湯町~湯元から離れた歓楽街形成の試み跡」だ。
 http://kazenoshin.exblog.jp/4913447/
 次に、この「湯町温泉」を地元の方々がとういう捉え方をしていたかという資料をもとにして整理し直した。「湯町建設と高湯温泉」だ。
 http://kazenoshin.exblog.jp/6217354/
 更に今回は、権力側の見え方とかかわる資料である「柴山景綱事歴【山崎忠和 著(明29.7)】」を目にする事ができた。それで、権力側と地元の方々との見え方を比べながらの整理し直しという側面もある。
 「柴山景綱事歴【山崎忠和 著(明29.7)】」によれば、引湯の目的は「此湯を庭坂本村に引かば病者も憾みななかる可し」であり、実際に「沸々数所の浴槽に湧く人争ふて来り浴す老者為めに健に病者為めに癒へ復た昔日の憾なし民物日に殖す嗚呼此舉人に恵する決して浅々に非らず」であった。そして、これが功績の一つとして明治政府に認められるということのようだ。
 しかし、「高湯温泉史」では、湯町開設の目的に地元民はかかわっていない。もっと政治的な話なのだろうとの推測をしている。その推測の根拠の一つが、この温泉引湯完成式典だ。
 10月25日に温泉引湯は完工するが、その式典は、それから2ヵ月後に、福島街道開通と合わせた祝賀会として、湯町のシンボルである共同館で開かれたとのことだ。
 その出席者には、黒田輝清内閣顧問と日本鉄道社長も臨席しているとのことで、庭坂街道開通・奥羽線開通と共に、温泉を引湯して湯町を開設することが、国を挙げての一大プロジェクトとなっていたと推測しているようだ。
 地元民を出汁に使ったのは、柴山景綱氏の功績を、明治政府に認めていただくための事歴の一つとの意図があるためだ。実際に、個人的に引き湯の恩恵を受けたのは、痔持ちの柴山景綱氏と県令官舎脇に県令専用温泉を設けた三島氏というのが本当の所なのだろうと思われる。
 その見え方は穿った見え方ではなさそうだと思えるのは、「官宅」の存在だ。
 この湯町が見渡せる高台には、県令や部長、警察部長などの公舎である西洋作りの官舎が並んで、ここを「官宅」といったとのこと。その「官宅」については「庭坂(米沢街道の宿場街)の官宅を訪ねて」として整理している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/5480668/
 高級役人たちは、ここから二頭立ての馬車で県庁へ通ったと伝えられている。その道筋が、もう一つの祝賀会趣旨である福島街道ということだ。

 もう一つ気になるのが、工事費用の捉え方の違いだ。
 「湯町温泉 引湯懸樋台石積」の案内柱では、その経費は2万円であったと言われるとする。「柴山景綱事歴【山崎忠和 著(明29.7)】」も資金貮萬有余圓とする。
 それを、「高湯温泉史」では、「福島町と郡の持ち出し約2万5千円、庭坂村は8千円、郡長・戸長の負担は1万7千円にも達した」とする。その後の湯樋や土管の補修等で、庭坂村が助成しても追い付かないとし、これが在庭坂が離れて庭塚村が誕生する一つの要因となったとしている。
by shingen1948 | 2014-06-16 09:14 | ◎ 山歩きと温泉 | Comments(0)