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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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のりしろ散歩~旧米沢街道笹木野宿⑤

 泉福寺・愛宕堂・稲荷神社・検断家、そして、「野火止堤」など、興味深い事は、街道の西側にあるので、裡道にあたる道筋も西側を中心に散策していた。
a0087378_11332254.jpg ここは笹木野集会だが、その右手の細道が街道東側の裡道にあたる道筋だろうと想像する。
 道筋に入って分かるのは、街道側が微高になっていること。こちら側は水田が広がっていたという事なのだろうなと想像する。「野火止堤」に相当する分だけ、東側の裡道にあたる道筋は街道に近い。

 この道筋をたどっていくと、時々行き止まりになりながら、野田小学校校庭の中央付近とつながる。そこに水路筋のイメージを重ねると、仏母寺及びそれ以前の仏眼寺は、その北側の堰の南側で、街道に沿うあたりというイメージを持つ。

 この仏母寺及びそれ以前の仏眼寺は、笹木野宿よりも古い。「福島市史」では、その笹木野宿が開かれる以前の福島からの庭坂道について、次のように紹介する。
 (福島からは、)八島田の東端の字道添(現三河北町北端)から本庄町、桃木町の南を通り、鎌古屋・笹木野原をへて西進したとみられる。桃木町以西は後年も庭坂への捷路になっていた。
 つまりは、現五叉路から西に直進する道筋の原形なのだろう。この道筋が庭坂町道だった道筋とつながるのだろう。
 先に見つけた「ふくしま・せのうえ」道標のふくしま道は、この道筋を指していたようだ。ということで、五叉路交差点まで戻ってしまった。

 笹木野宿が開かれた後の旧米沢街道大森道と福島道の役割変遷も確認しておく。
 旧米沢街道が本格的に開かれるのは、天文18 年(1549)11 月に伊達晴宗がその居城を伊達郡桑折西山城から米沢城に移すことに起因する。
 その起点は、天正2 年(1574 年)以降、後の奥州道中八丁目宿(福島市松川町)とし、戦国時代を経て、近世幕藩時代(上杉藩)に至るまで、米沢街道は大森道で、八丁目―大森─庭坂─板谷峠─石仏(大沢)─米沢のルートであったという。
 それが、福島経由となるのは、寛文4 年(1664)以降だ。その事情は米沢藩が30 万石から15 万石に削封される。それに伴い、信夫郡と伊達郡は幕府領となって、八丁目宿から米沢に直通することを控えるようになったのだとか。
 旧米沢街道は、福島起点とする福島道となり、福島―八島田―笹木野を経て、庭坂─李平─板谷峠─大沢─米沢のルートになったという。
 「福島市史」では、文政2年(1819)の笹木野宿の規模が、庭坂といくらも違わないことを示すために、各宿の宿役定例と、米沢藩の参勤交代時の宿利用について以下のように記す。
 いつの頃のことか米沢藩は、参勤交代で江戸に登るときは、庭坂・八丁目とつぎ、帰る時は笹木野・板谷とついだ。
 そこには、上記の気遣いにもかかわっているように思える。
 なお、各宿の宿役定例は、次のように紹介される。
 福島駅は、夫83人・馬85疋(ひき)で断トツだが、李平駅の夫7人・馬7疋に比べ、笹木野駅は夫17人・馬17疋で、庭坂駅の夫20人・馬20疋と大差ないとする。
by shingen1948 | 2014-06-04 11:37 | ◎ 米沢街道 | Comments(0)