地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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のりしろ散歩~旧米沢街道笹木野宿④

a0087378_8263992.jpg 延宝3年4月8日が読める。ということで、こちらが2代目茂木助兵衛氏の墓だろう。
 「野田村郷土史」に「代々米沢家から信任篤く数々の賜り物や、系図書もあったが火災で焼け落ちた」とある。
 初代の業績は、宿場から遠い方部の人々が何時も割り損な荷物しか当たらないので物議が絶えなかったのだが、宿場に近い方部のみを笹木野村として分村したことだろうか(「野田村郷土史」では、万治元年とする)。
 これを受けた2代目茂木助兵衛氏が笹木野宿で肝煎・検断も勤め、その信任篤く数々の賜り物を頂戴しするようになるようで、この2代目茂木助兵衛氏の業績が大きいらしいことが「福島市史」に紹介されている。

 2代目茂木助兵衛は、笹木野宿で肝煎・検断も勤めている。国領半兵衛検地のあと、延宝3年(1675)4月に亡くなっている。その後、幕末までこの子孫が、ここで問屋・検断を務めていた。そして、米沢藩主の信任が特に厚かったと伝えられる。
 寛政6年(1794)の笹木野村差出明細では、「当村駅場、問屋壱軒、是ハ検断兼相勤申候、御免41高弐拾5石6斗9升、無諸役デ引申候」とある。この問屋は殿屋ともいわれ、米沢藩主の宿所にもなっていた。
 初めは、この宿でも屋代郷の城米を附送りしたが、宝暦11年(1761)の「庭坂村明細帳」でみると、庭坂から福島河岸に直送するように変わっていて、笹木野では城米の積替をやらなくなっていた。
 それで笹木野宿からも庭坂宿に人馬を出して、4分6分の割合で城米を福島河岸に輸送した。この慣行は幕末まで続いている。かくして、城米輸送を担当しているため、笹木野の村高の半高が無役になっていた。
文政2年(1819)の笹木野宿の規模は、次のごとくで庭坂といくらも違わなかった。
 米沢藩主の信任を得た2代目が、しっかりと笹木野宿の基礎固めをし、笹木野宿を開いた初代を院殿で弔ったということなのだろう。
 風景としては、「野田村郷土史」がいう「愛宕山泉福寺」、「愛宕神社御縁起」がいう「真淨院○泉福寺」、「福島市史」がいう「泉学院・泉福寺」とのつながりかなとも思うが、ここからは立ち入らない。
 ただ、市史の「泉学院」が気になるのは、「信達秩父三十六観音」の所在不明の31番札所が「泉覚院」とかかわるのかどうかということ。
 次の32番札所が波岡邸で、その次が33番札所圓光寺、そして、その次の34番札所が福島市南沢又中条の光徳寺ということだ。「泉学院」と「泉覚院」は一字違いだか読みが一緒。これを同じと仮定すれば、今度は笹木野宿に観音堂があったということか、この寺の旧地下野寺の薬師堂(または鶴巻)を指すものかと想像が膨らむということ。

 笹木野宿の規模をいうのに 「次のごとくで」と表記するのは、李平駅、庭坂駅、笹木野駅、福島駅の宿役定例表だ。福島駅が夫83・馬85疋で断トツだが、夫7・馬7疋の李平駅に比べ、笹木野駅は夫20・馬20疋で、夫20・馬20疋の庭坂駅にひけをとらないとする。更に、参勤交代で江戸に登るときは、庭坂・八丁目とぎ、帰るときは笹木野・板谷とづいだとするのは庭坂駅と変わらないことの強調。だが、この例で気になるのは、これって行きは大森道とし、帰りは福島道としたということになるのではというほうかな。
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by shingen1948 | 2014-06-03 08:54 | ◎ 米沢街道 | Comments(0)