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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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のりしろ散歩~旧米沢街道笹木野宿②~宿を開いた茂木助兵衛氏について

 笹木野宿の西側から水路沿いの道筋を進むと、目の前に墓地が現れる。稲荷神社で見えた墓地である。
 この稲荷神社の周りや裏側に大きな切り株が見えていた。その時は、これを屋敷林(いぐね)とみていた。そして、その西側に街道裡道に相当する小字界の細道が走っているというイメージだった。
 その風景の外側に、墓地が見えていた。今回は、堰沿いの道筋を確かめている中でこの墓地に出会ったということ。
a0087378_5282750.jpg
 ここまでなら気にも留めなかったのだと思う。ここで目についたのが、墓碑に刻まれた「院殿」の文字だ。
 そこで思い出したのが「笹木野宿」を開いた茂木某が、「院殿」になっているという「野田村郷土史」の情報だった。それで、その墓碑を写真におさめ、家に戻って確かめたということだ。
 「のりしろ散歩~米沢街道⑩~笹木野宿」で、その「野田村郷土史」の「笹木野宿」を開いた方についての解説を引用しているが、再掲する。
 http://kazenoshin.exblog.jp/19688030/
 「笹木野宿場は、大阪落城の後、豊臣の重臣、茂木某一族と共に当地に下り、原野であった笹木野に宿場(駅)を開いたのが初めてで、今尚問屋と呼ばれる本家が残っている」とある。
 その茂木某一族については、以下のように解説する。
 笹木野町の名付け親である。
代々米沢家から信任篤く数々の賜り物や、系図書もあったが火災で焼け落ちた。
 清光院殿夏山淨雪大禅定門(承応3甲午年4月29日卒)当町開基
 ※「雪」は、「雲」にも見える。また、「承応」が「羗(きょう) 應」に見えたが、應が応の旧字体としても、「羗 應」の年号はないので、矢張り「承応」かなとは思う。

 「笹木野宿」を開いた方だが、「野田村郷土史」では「茂木某」氏とされ、地元の資料では大概そのようにされている。これを「福島市史」では、この「茂木某」氏は茂木助兵衛だとしている。この事を確認しておく。
 問屋検断の茂木家は明治初年まで代々助兵衛を襲名した人が多いとのこと。「福島市史」では、その中の「慶安1.2年(1648~49)の分限帳」の「左崎野助兵衛」氏と「万治2年(1658)の沢俣村給人帳」の「笹木野助兵衛」氏がその人だとしている。
 その理由として、墓碑による茂木某の没年の確認、問屋検断の茂木家の襲名、分限帳に記載される人命と茂木家との照合、2代目助兵衛の特定と墓碑による照合等々、緻密な考察を掲げる。これが、専門家好みでなく、素人にも納得できる説得力のあるものだと思っている。それで、表題は「宿を開いた茂木助兵衛氏」とした。
by shingen1948 | 2014-06-01 05:35 | ◎ 米沢街道 | Comments(0)