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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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のりしろ散歩~愛宕山泉福寺

 史実は、資料に基づいて実証的に考察するということであれば、笹木野宿愛宕神社は、「愛宕神社御縁起」がいう「神仏焚書の神社」であるらしいことが災いする。
 「野田村郷土史」によれば、愛宕山泉福寺もまた、笹木野町の大火に焼失した上に、福島市真淨院に合寺してしまったということから、その資料は心細いということのようだ。
 勝手な言い分だが、実証的な考察からでは、どちらも捉えにくい状況なのだろうと思っている。多少、想像の翼を広げてもよさそうに思う。
a0087378_944467.jpg ここは、笹木野宿の愛宕堂追分道標から旧米沢街道を西にすすんだ古碑群のある地点からの眺め。右手の赤い屋根がみえるのが愛宕堂で、ここはその裏手という位置関係でもある。
 ここに写る辺りから、北は稲荷社の西手の墓地付近の範囲辺りまでのどこかに、愛宕山泉福寺をイメージしてみている。
 「のりしろ散歩~米沢街道 町続と野寺情報」では、泉福寺の位置を「小字笹木野町南端近く」と推定していた。それを上野寺の散歩で得た情報と感性的なイメージで、その範囲を広げた。
 具体的な情報としては、吾妻公民館前の「吾妻地区史跡文化財案内」で「愛宕神社」裏手に「泉福寺」がプロットされることと、「福島市史」の「幕末頃の両上野寺・下野寺(本郷め分郷)・両笹木野(御領め私領)・八島田要図」では、「愛宕堂」の地点に「泉福寺」がプロットされていた。
 散歩の中では、稲荷社の西手の墓地に沿うようにその西側に消えた道筋があって、その道筋をたどってくるとこの旧米沢街道の古碑群の地点にたどり着くという事。それに、上野寺の散歩で、大林寺の旧地のイメージが「武隈稲荷」と「釈迦堂」が「元大林寺」とセットになっているという感性的なこともある。
 ここでは、「愛宕神社」と「稲荷社」、それに「笹木野宿開基者の眠る墓」を愛宕山泉福寺とセットにしたイメージにしてみたということ。

 先に泉福寺の位置を小字笹木野町南端近くと推定しているのだが、上野寺散歩を元にすると、もっと「愛宕神社」と近いのではないのかなという印象が強くなったということがある。
 先の推定は、「野田村郷土史」に泉福寺が笹木野宿に移動することについて「万治2年下野寺村が分村した際に、この寺を笹木野町の愛宕山に移し、愛宕山泉福寺と改めた」としていることを元にしている。「笹木野町の」にこだわれば「小字笹木野町」の範囲であり、「愛宕山」にこだわれば愛宕堂に近いということで、その南端近くと推定したところだ。ただ、「笹木野町の」=「小字笹木野町」としたことだが、「野田村郷土史」では「笹木野町の」をもっとアバウトにその文化圏ともいうべき広い範囲を指しているようにも思える。それなら、愛宕堂のある「小字町続」も含めてもよさそうにも思えてきたという事もある。
 愛宕山の概念だが、近くに山はないのでその方向的概念とみれば、下野寺北西のイメージということかな。
by shingen1948 | 2014-05-28 09:07 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)