人気ブログランキング |

地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

のりしろ散歩~笹木野宿愛宕神社

 旧沢街道福島道は、笹木野宿の愛宕神社を右折して西に向かって進むようになる。そこを「のりしろ散歩」ということで、南進して上野寺付近を歩き回った。
 そこで得た感覚的な事と情報を元に、旧沢街道福島道歩きに戻ってくると、今まで見ていた風景と少し違って見える。
 その一つが「110.6mの三角点のある丘」の風景で、三回に分けて整理した。
 もう一つ気になっていた風景が、この笹木野宿の愛宕神社の風景だ。「野田村郷土誌」がいう「愛宕山泉福寺」と笹木野宿の風景から感じる事を統合できそうな気がする。

 その手始めに、笹木野宿の愛宕神社の風景。
a0087378_1675534.jpg 「野田村郷土誌」では、「愛宕堂」としている。確かに、鳥居はあるが建物は宇堂である。そこに違和感を持つのは神仏習合の風景に慣れていないからなのだろう。
 神仏習合時代の「愛宕信仰」についてウィキペディアで確かめると、その愛宕の神については、次のように解説されていた。

 愛宕の神とされるイザナミは神仏習合時代には勝軍地蔵を本地仏とし、軻遇突智(火産霊尊とも)も共に祀った。現在でも、愛宕の縁日は地蔵と同じ毎月24日である。また、現在でも火産霊命が祭神とされる。
 「愛宕権現」の項では、「愛宕山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神号であり、イザナミを垂迹神として地蔵菩薩を本地仏とし、愛宕山白雲寺から勧請されて全国の愛宕社で祀られた」との解説。
 神仏習合時代の愛宕信仰は、現代風の感覚でとらえれば、火伏せ神+地蔵信仰かな。

 のりしろ散歩の撮りためた写真を眺めていたら、愛宕神社宇堂内に掲げられていたらしい「愛宕神社御縁起」の張り紙が写っているのをみつけた。
 そこでは、御祭神は、加具上命(火産霊神―火を司る神)と神社としての体裁を整えている。
 その本文だが、読み取れる部分を拾い読みしてみると、「勝軍地蔵を本地仏とし」とある地蔵信仰とかかわるらしい事も記載されているようだ。
 「愛宕権現の本地仏を勝軍?地蔵尊とし」が読める。当社の御神体のお姿に関わっては、「武人の信仰も厚かったらしい。当社の御神体もたしか馬上の○○お姿であったことを想いだす」という部分が拾い読みできる。
 「勝軍地蔵尊」の姿を確認すると、「甲冑を着け、白馬にまたがり法旗と宝剣を持ち、隆昌安住の三味を往する神像」との事。それに近いお姿らしいことが書かれているらしい雰囲気が想像できる。
 戦国時代には、愛宕権現は勝軍地蔵が垂迹した軍神として武士からの信仰を集めるということで思い出すのが、大河ドラマ「天地人」の直江兼続が兜。
 その前立に「愛」をまとっていた理由の説の1つとして、愛宕信仰説があったということ。適時性ということでは、ちょっと遅いかな。

 西の国々の方々の確立した宗教観に基づく慶応4年(1868年)の神仏分離令による廃仏毀釈で、修験道に基づく愛宕権現が廃される。明治3年(1870年)には、大元である白雲寺も廃寺に追い込まれて愛宕神社に強制的に改組されるとのことだ。当然、笹木野宿の愛宕権現もまた、強制的に愛宕神社に改組されたとのことなのだろうと想像する。
 とりあえず、この愛宕堂は、勝軍地蔵が祀られた愛宕権現堂だったのだろうという想像が固まる。

 「愛宕神社御縁起」で、もう一つ興味深いのが、愛宕権現と泉福寺との関係性が強調されているということだ。
 愛宕権現堂の創建年代を万治2年からあまり隔たることはないとするその理由が、泉福寺が下野寺村から当地に移転した年が万治2年だからだとある。そして、その泉福寺の位置も「当社と隣接した福島真淨院〇泉福寺」と表現されている。
by shingen1948 | 2014-05-26 16:12 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)