地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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のりしろ散歩~上野寺散策に米沢街道(大森道)の散策を重ねる⑤天戸川の堰

 天戸川流域には、幾つかの堰があるが、これが金兵衛堰(新堰)の直ぐ上流の「大堰」だ。この更に上流には「上堰」があり、その途中から「中堰」になるらしいのだが、今回はこの「大堰」までにする。
a0087378_6235515.jpg 「歴史地図」では、その土地の条件を考えながら共存していく先人の知恵のれいとして、その止水方法を紹介する。
 「上堰(中堰)」は石止めの取水方式で、この「「大堰」」は、砂利止めの取水だったとのことで、取水量がやや増加するようにしたのだとか。 「金兵衛堰(新堰)」では、くれ止めといって、芝生の根付きのままの土で止水し、完全取水をはかったとのだとか。
 「歴史地図」の視点は、福島用水の源流としての位置づけが中心で、渇水時の福島用水の増量にかかわる対策について以下のように解説する。
 これ等(天戸川の堰の完成)は、文化年間(1,804~18)といわれている。しかし、渇水時にはこれでも不足した。特に、最下流の五十辺や腰浜の渇水は深刻で、とうとう須川が合流した下流地点の上野寺字下河原地点須川右岸からも取水することとなった。ただし、これは悪水なので、渇水時にだけと限られた。
 特に文化9年(1812)の吾妻山爆発で須川は悪水と変わったので、揚水反対もあった。
  「野田村郷土史」では、村内のトラブル事情を中心に解説するが、この堰の下流の三村の公益としての視点で次のように解説する。
 まず、庭塚村等の上流の村では、須川からの増水のための取水は、水質悪化を理由に拒まれて通水不能となる。その対策として、旱魃時には番人を立てて上流の地域は水をかけないで素通りさせ、下流ではいろいろな水を混ぜながら工夫するして灌水するという約束事で解決しようとしたのだとか。これが、年月が立つとうまくいかなくなる。
 このことで、中流域の二子塚などでは自村の確実な水確保にはしる。堰の下流に入る樋口を閉めてしまったりしたということだ。
 このトラブルの解消が、この堰の下流の三村の公益であり、公共の為、多少の少数派の犠牲は我慢するというのが正義という視点で整理される。

 「野田村郷土史」筆者は下流域の地域に属するようで、「歴史地図」の筆者は福島の地域に属するようで、視点的には同じ立場で整理されるようだ。
 震災前なら、自分もすんなりと受け入れたのだと思う。しかし、現時点では、ちょっと抵抗がある。
 確かに、震災時に大災害にもかかわらず混乱がなかったことが、驚きをもって報じられたのだが、そのペースにあったのは、この価値観だったのだとは思う。それでも、多数の人々が暮らす地域の公共の利益のために、少数の人々が暮らす地域の不利益は我慢するという社会正義に疑問を感じている。
 少なくとも、少数の人々が暮らす地域の不利益を訴える事が大切なのたと思う。
 公共の利益を得る多数の人々が暮らす地域の人々も、その不利益を思いやれるという関係性を成立させなければならないのだと思うからだ。多数の人々が暮らす地域人々が、その利益を得ることが当然の事という意識で、しゃあしゃあと理想論を語る姿勢に反発を感じるのだが、それを表明することが大切なのではないかなと思えてきているからだ。
 そういう意味では、この堰の根本的な解決は数年前の耕地整備構造改善事業の際に須川からの増水取入れ口が廃止された時点ということになるのではないかなと思う。
by shingen1948 | 2014-05-12 06:31 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)