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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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のりしろ散歩~上野寺散策に米沢街道(大森道)の散策を重ねる④金兵衛堰

 「福島市史」では、現県道福島吾妻磐梯線の原形「高湯街道」の道筋について、福島用水に並行していた旧道を改修・換線したものと解説している。「歴史地図」では、その旧道を旧高湯道としているようだが、その道筋と並行する「福島用水」とかかわるのが、この天戸川の須川の合流地点の僅かに上流地点の「金兵衛堰取入口(新堰)」だ。
a0087378_5344340.jpg 「歴史地図」では、「文化年間(1810年頃)つくる。福島用水と合流。文化9年(1812)に吾妻山が爆発し須川の用水は悪水となり、須川から用水をとることは人々から反対された」とメモを記す。別の「福島用水(福島城下用水・御殿水)」の解説のページで、その「福島用水の補修と現状」として次のように紹介される。
 上野寺・下野寺それに福島城下各村の水不足を解消するために、上野寺の名主金兵衛は現在スカイライン通りに架かる二子塚橋(吾妻公民館西)の下流200m地点に「新堰」を設けた。悪水が合流する須川の合流点からギリギリ100m地点である。

 ここから揚げられた天戸川の水は、上野寺字竹の内地点(東北自動車道東側)で福島用水と合流する。
 この新堰は、創設者の名をとって金兵衛堰とよばれている。金兵衛は、地元の伝承によると、何故か「きまり金兵衛伊達名主」とニックネームがつけられているという。
 その金兵衛氏については、「野田村郷土史」で「『新堰』別名金兵衛堰」の功労者として詳しく紹介されている。ただ、この金兵衛堰については裁判沙汰にまでなった水争いの調整の結果開設されたものとの前提での紹介だ。
 名主金兵衛
 文化年間に構築し須川を堰上げ天戸川に入れて水量を増し、新しく野寺方面へ流れる延長約1里半の堰を造った。
 上野寺の東部は水不足で毎年干害が続くので、名主金兵衛氏(元二階堂駿河守の後裔)が発起となって構築にかかった。ところが水上の村では極度に反対し代官に訴えるなど容易に捗らなかった。金兵衛氏はどこへ行っても強い誠意と熱弁を以て当たったので、事はどんどん進んで行った。地方では誰いうとなく「きまり金兵衛伊達名主」と綽名をとった。
 その位牌から、戒名と天保8年5月11日卒も記している。
 ここで解説されていないのだが、問題になると思われるのは、「須川を堰上げ天戸川に入れて水量を増し」の部分だろう。その問題点が、須川の水質だ。
 「歴史地図」で、「文化9年(1812)に吾妻山が爆発し須川の用水は悪水となり」と解説している部分だ。
 この須川と合わさる他の川の水質は良質なのだが、わけてもこの天戸川の水質が最上質であるということもある。この水質について、「野田村郷土史」では松川と天戸川流域の住人の長寿度比べで天戸川の水質の良さを絶賛している個所もあるぐらいだ。
 天戸川の上流で、その自慢の水質を誇る天戸川に悪質な水質の須川の水を入れて増水するという事なのだ。「水上の村では極度に反対し代官に訴えるなど容易に捗らなかった」のも分かるような気がする。
 これ等対立意見を見事に調整して堰を完成させた上野寺名主金兵衛さんということのようだ。

 金兵衛堰について具体的に紹介する項では、水争いの結果として樋口を閉鎖され堰を復活させる作業を「堰は埋まり、木も茂って目通り直径5、6寸の木は随所に在りあり、新しく掘る位の手間を費やしたと古老は語っている」と紹介し、「この金兵衛堰を完成して、流域200町歩を潤した大恩人は、何としても上野寺村名主二階堂金兵衛父子3代の偉業であって、将に湯野村西根堰に比するものと思う」と偉業を称える。
 実際には「野田村郷土史」が「上野寺村名主二階堂金兵衛父子3代の偉業」で、長期に亘る大事業というように、時間をかけての解決でもあったようだ。
by shingen1948 | 2014-05-11 05:44 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)