のりしろ散歩~野寺情報を求めて追分を南へ進む
2014年 04月 21日

小字町続の地蔵尊追分道標の北、西、南が読めるのは、どなたかがなぞったせいのように思うのだが、その行き先が読み取れない。北がふくしま、西がにわさか、南がたかゆと想像するがどうだろうか。旧米沢街道(ふくしま道)は、ここから西に進むことになるが、その前に南に進んでみる。
この先に、「2代目金子周助建立伝神社・仏堂③」で整理した「小針地蔵堂」がある。
http://kazenoshin.exblog.jp/19359712/
「歴史地図」によると、更にその先に進んで、現高湯街道と突き当たるあたりが「野寺発祥の地(古寺跡)」とのことだ。地図で確かめると、その辺りは竹ノ内地内のようだが、その辺りに寺の地図記号が記され、そこに「野寺発祥の地(古寺跡)」とメモされるのだ。

ここは、民家の敷地とも公道ともつかないので、遠慮しながら写真だけ撮らせていただいた。
「野田郷土史」に「延命地蔵尊」として紹介されることと重なるのだろうと推測される。
「延命地蔵尊」その南奥の墓碑群も、宇堂裏の裏手に見える古碑群と共に、その解説とかかわる風景なのだろうか。
字竹ノ内にある。当地は前述のように、野寺の寺があった所なので、本村文化の発祥地である。
「野田郷土史」の延命地蔵の解説に「当地は前述のように」とあるのは、泉福寺とのかかわりだろうと思う。
「野田郷土史」では、下野寺の菩提寺が「薬師山泉福寺(真言宗)」であることを前提にしている。その位置を小字薬師堂辺りと推定しているようなのだが、その別説の一つとして「(小)字鶴巻にあったとする説もある」と紹介している。このこととのかかわるのだろう。
この見え方は、「歴史地図」の見え方と多少違いがあることが分かる。
それは、「歴史地図」では、この古寺を泉福寺とイコールであるとは、言い切っていないことがある。もう一つが、この「延命地蔵尊」宇堂辺りが「古跡 淀内古寺跡」とイメージしているらしいことだ。
「野田郷土史」の見方は、淀内古寺跡が泉福寺であるとし、別説の位置も現小字淀内の南東端の墓地附近をイメージしているように思われるのだ。というのは、「福島の小字」によると、別説として紹介される小字鶴巻は淀内の南東方向にあるはずだが、現在はその小字が見当たらない。現況の小字淀内南東端あたりだと思われる。確かにその辺りに墓碑群があって、その辺りに淀内古寺跡の風景をイメージしているように思われるのだ。