地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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のりしろ散歩~米沢街道⑩~笹木野宿

 笹木野宿を起点とする飯坂古道の一つの道筋が、仏母寺の西側の道筋だが、その道筋がここまでで切れるのではない。
a0087378_5262392.jpg 飯坂古道につながる道筋は、西に延びる道筋を越えて、更に新道を越えて南に延びている。
 笹木野宿の街道筋を意識すれば、その裡道にあたる道筋で、現況では小字界の道筋になっている。この細い道筋の痕跡は、稲荷神社までたどる事ができる。笹木野宿の街道筋との距離は、イメージ的には二軒分の幅だが、所によっては一軒分の境にも細い道筋が走る。

a0087378_527161.jpg 「野田村郷土史」によれば、この稲荷神社は、万治年間(1658~1660)大阪方の重臣茂木一族が笹木野宿場を開いてから、当地の鎮守とされたのだとか。祭神は宇迦之御魂大神で、農業の神という。

 現況は開けているが、稲荷神社の周りや裏側に大きな切り株が見える。
 この辺りは、街道沿いの街並みの西側に相当する。屋敷林(いぐね?)だったのだろうと想像する。ならば、街道裡道に相当する小字界の細道の東側は、この屋敷林群が広がる風景だったのだろうか。

a0087378_5331289.jpg 米沢街道側からこの稲荷神社へ向かう右手の民家に「米沢街道(福島道)笹木野宿検断・門屋跡」の標柱が建つ。
 「野田村郷土史」の「笹木野宿」の項に、「笹木野宿場は、大阪落城の後、豊臣の重臣、茂木某一族と共に当地に下り、原野であった笹木野に宿場(駅)を開いたのが初めてで、今尚問屋と呼ばれる本家が残っている」とある。そのこととのかかわりだろう。
 その茂木某一族については、以下のように解説する。
 笹木野町の名付け親である。
代々米沢家から信任篤く数々の賜り物や、系図書もあったが火災で焼け落ちた。
 清光院殿夏山淨雪大禅定門(承応3甲午年4月29日卒)当町開基
 福島城下とイメージを重ねれば、福島城代本庄重長氏の時代かな。亡くなっている年が重なっている。
 福島城代本庄重長氏は、本庄繁長氏の六男で、父の跡を継いだ兄の充長氏が嗣子無きまま没したので、寛永2年(1625年)禄高3333石で福島城代となり、寛永5年に侍頭となり、同じ承応3年10月2日に享年53歳で亡くなっている。

 「野田村郷土史」は、笹木野宿の成り立ちにかかわっては、次のように解説する。
 昔の駄賃は米一俵を1里運んで15文が相場、物価高騰後も殿様の指定荷物駄賃は上げられず、渡世の馬子は追々減り、仕方なく村の石高に応じて割り当て人夫を出させられるようになる。
 宿場から遠い方部の人々は何時も割り損な荷物しか当たらないので物議が絶えず、遂に万治元年宿場に近い方部のみを笹木野村として分村してしまった。
 この宿場が明治維新まで続き笹木野町として栄えた。
 
by shingen1948 | 2014-04-17 05:40 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)