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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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のりしろ散歩~米沢街道⑨(笹木野宿附近)~仏母寺附近

 仏母寺参道の仏母院殿の墓碑は、「仏母院殿慈室○○」右側に「大姉」が読め、その右脇の「天正13年2月17日」が読める。「野田村郷土史」の情報と照らし合わせ、上堺氏の菩提寺としての仏母寺開山にかかわる墓碑であることが推測される。
 上堺氏を、上杉家臣の視点からネット上で確認すると、信濃諸将の泉衆に属する方らしい。
 文禄年間の家臣団の中に「上堺2850石、平九郎」が確認でき、結構上位の方らしいことが分かる。ただ、同じ信濃諸将で先に散策した八島田村と直接かかわったらしい夜交弥左衛門氏のその後は米沢時代まで追えるようだが、この方は追えない。
 仏母寺創建に関わるのは、自らの菩提寺を移転させるというのが当時の戦国武将の常識らしいので、これに従っての事なのだろうと思う。
 その平九郎氏は、慶長6年8月16日に亡くなられるようだ。
 この日は、上杉氏が、会津若松120万石から米沢30万石に移封された日でもある。上杉氏にとって、この時点から米沢藩が成立し、その領域が出羽国置賜郡と陸奥国信夫郡・同伊達郡となる重要な転換点の日でもあるかな。

 「歴史地図」では紹介されないが、この仏母寺の西側の道筋が、笹木野宿を起点とする飯坂古道の一つの道筋だ。のりしろ散歩~米沢街道⑨(笹木野宿附近)~仏母寺附近_a0087378_3315510.jpg この道筋の雰囲気については、先に「気を感じて伏し拝む③」の中でふれている。
 この起点から、集落を外れて暫く進んで松川に出会う少し前に鎮座する山神様の前あたりまでの様子だ。この時は、新年を迎えて直ぐという時期なので、ここからよく見える吾妻山に新鮮な雰囲気を感じたことを思い出す。
 http://kazenoshin.exblog.jp/14434394/
 現況の五叉路の交差点から北へ延びる道筋は、昭和2年の航空写真でははっきりせず、この時点でくっきりと見える道筋は、この飯坂古道の道筋と仏母寺の参道だ。
 その事とかかわって気になっているのが、古い地図に仏母寺の東に役場の記号がみえること。これが、写真の中で失われた笹木野宿の雰囲気を感じられるかもしれないという期待感と重なる。

 実は、小学校の記念誌で、次のような旧野田村役場の解説と写真をみた事があるのだ。
のりしろ散歩~米沢街道⑨(笹木野宿附近)~仏母寺附近_a0087378_334767.jpg 「旧幕当時は笹木野宿場の宿屋であった。明治初年、笹木野村戸長役場となった。明治22年、自治制実施に伴い、旧4ケ村を合併し、野田村となり役場とした。昭和28年新役場を建設したので、これを教員住宅とした。昭和30年競売し取り壊す。」
 この情報は、地域の中の情報であり、誰しもが分かっている事としてその位置情報がないのだ。古い地図の役場の位置情報と重ねれば、昭和28年の新役場建設までの役場位置が仏母寺東側ではないかなと勝手に想像するのだ。
 今のところ確実性はないのだが、位置的には仏母寺の東手にあった笹木野村戸長役場であり、旧幕当時は笹木野宿場の宿屋を改装したものと勝手に想像して楽しんでいる。

 恐らく、仏母寺参道の道筋が寺近くで東側に回り込む道筋になっていて、その先にその道筋沿いの南東向きにこの役場があったというのが全体的なイメージ。古い地図や航空写真で確認した道筋と仏母寺と笹木野村戸長役場(明治22年からは野田村役場)の位置関係、そして、村役場の写真の向きなどから勝手に膨らませた想像だが、本当はどうだったのかな。
by shingen1948 | 2014-04-16 05:30 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)