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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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のりしろ散歩~米沢街道⑨(笹木野宿附近)~仏母寺

 「野田村郷土史」によれば、仏母寺は、慶長3年(1598)上杉家臣の上堺彦六の子堺左馬之助が、天正13年2月17日に亡くなった母(上堺彦六の妻)の菩提を弔うために創建し、米沢東源寺12世照山関良和尚を勧進して開山されたと読み取れる。
 「母(上堺彦六の妻)の菩提を弔う」という事とかかわるのが、参道右手の歴代和尚の墓の中の墓碑なのだと思うが、まだ定かではない。
a0087378_3283674.jpg 円光寺の案内で、円光寺観音堂が「当地方の新西国33カ所中の第30番の札所」であることを確認したが、この時に、その前の第29番札所が一杯森の正眼寺であり、第31番札所が仏母寺であるらしい事を確認した。一杯森の正眼寺の観音堂は確認できていないが、こちらが仏母寺の観音堂かなと思うがどうだろうか。

 地域という固定的な視点に立てば、寺が仏眼寺から仏母寺に変わったということになるが、これは地域をおさめる権力者の交代に起因する。
 仏眼寺が去るきっかけとかかわるのが、天正19年(1591)8月から9月頃の豊臣秀吉の安堵。
 豊臣秀吉は、政宗から伊達郡・信夫郡・長井郡などを没収し、替わりに葛西・大崎地方の12郡を政宗に与え、伊具・名取・亘理など8郡を安堵する。これで、伊達郡・信夫郡だけは残してほしいという政宗の願いが実らず、総石高62万石で面目を保ちながら、米沢城から岩出山城(宮城県大崎市)へ移る。この顛末とかかわっての仙台仏眼寺移動と渡利の仏眼寺移動なのだろう。

 仏母寺創建の慶長3年(1598)は、急死した氏郷に替わって越後から上杉景勝が会津若松城に入った年と重なっている。上杉氏が、蒲生旧領と佐渡国三郡、出羽国の一部を合わせて120万石を領すことになるのだが、伊達郡と信夫郡もその上杉領に含まれる。多分、その時に、上堺氏がこの地の支配を担っていたということなのだろうと想像する。
 ただ、伊達政宗の祖古来の地である伊達郡と信夫郡奪回の野望は続いていて、慶長5年(1600)7月の「関が原の合戦」の年の8月から10月に、徳川家康の命に背いて刈田郡の白石城を攻め取った後、大枝城などに陣を置いて梁川城などを攻める。この時に、上杉氏配下の須田長義(梁川城代)、本荘繁長 (福島城代)らの抵抗で完全に夢破れるという経緯をたどるという感じだろうか。
 この時、伊達氏のほとんどの家臣たちは新領地へ移るだろうが、その一部は残るという状況の中に、上杉家臣団がやって来るという複雑な事情も絡んでいるのだろうなとも勝手に思う。

 この地の支配を担ったと思われる上堺氏がどなたという事だが、今のところ、「越後長男・上杉氏雑考」というページで、上杉家臣の上堺彦六氏が、永禄年中の第五次川中島の頃、飯山城を挟んだ武田信玄VS上杉謙信の話の中に登場するらしいという情報確認まで。
 http://blog.goo.ne.jp/komatsu_k_/e/a02213ec6a1036226a22b5061039e6f0
 「永禄7年(1564)4月20日、上杉輝虎(謙信)が 35歳の頃、信州飯山城(水内郡)の城衆(外様平衆)である上倉下総守・奈良沢民部少輔・上堺彦六・泉弥七郎・尾崎三郎左衛門尉・中曽根筑前守・今清水源花丸に宛てて書信を発し、飯山城の防備を強化するため、安田顕元(譜代衆。越後国安田城主)と岩井昌能(信濃衆。もとは高梨氏の同名衆)を派遣することを伝える……」との情報だ。
 この時に謙信方についた地域の豪族(外様平衆)の一人として、上堺彦六氏の名が見えるらしいという孫引の確認まで。
 上堺氏のその後や天正13年(1585)2月17日の上堺彦六氏の妻の悲劇なるものは確認できていない。
 「野田村郷土史」がいうように、確かに、伊達政宗氏は、天正12年(1584年)に伊達家の家督を継ぐと、積極的な勢力拡大策を採ってあたりかまわず戦いを挑んでいる。先に小手森城・小浜城の攻陥、人取橋の戦いなど整理している。ただ、天正13年の時点で上堺氏とのかかわりは確認できないでいる。
by shingen1948 | 2014-04-14 05:26 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)