地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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のりしろ散歩~米沢街道⑧(笹木野宿附近)~仙台仏眼寺旧地②

 散策で、解説される事柄を感覚的に納得するのには、時間的な連続性は、結構重要な要素になる。
 先の下八島田村附近の散策では、この感覚的に納得するための時間的な連続性を「勝口前畑遺跡」のむらの営みに求めていたところだ。
 その「勝口前畑遺跡」は、弥生時代の痕跡から古墳時代、平安時代ののむらの営みの痕跡があるのだが、6~8世紀の間にブランクがあるのだとか。その後、9世紀になると、再び新たな開発によって営みが再開されたとのことだった。その連続性の中に藤権現碑建立の永仁5年(1297)との時間的な連続性と、地域的な広がりの連続性を得ていたとということだ。
 しかし、この仏眼寺創建が嘉元3年(1305)とのことなら、藤権現碑建立の永仁5年(1297)の8年後ということで、その連続性は強まる。
 藤権現碑案内柱解説の「鎌倉幕府は弘安の役等内外の乱世を鎮むる為め、各地に名僧を遣わし民心の安定をはかれし由。此の集落にも其の頃旅の僧来たり。自ら大石に刻まれ傍らの清水に水ごりをとられ、ひと廻りの祈願をされて立去りしと言う」に感覚的な説得力が増したように感じている。
 教科書的には、「藤権現碑」建立の永仁年中は鎌倉時代の後半の時代であり、元寇の恩賞に関する問題等が発生し、御家人は困窮していく時代。永仁5年は、幕府がその御家人救済のために徳政令が出たという時代の転換点を示す年。その8年後の仏眼寺建立の嘉元3年(1305)は、鎌倉幕府内騒乱といわれる嘉元の乱(北条宗方の乱)に重なるとのことだ。

 「野田村郷土史」では、仏母寺の方を中心に解説する。
 般若山仏母寺
 笹木野町にあり米沢市東源寺の末寺である。
 天正年中上杉景勝の臣、上堺彦六重国が当地を支配していた頃、梁川にいた伊達氏に攻められて落城の悲運に陥った。重国の妻は豪気の女丈夫であって、米沢に落ち延びる様に勧められたが、武士の妻は城と共に討ち死にするといって、二人の幼児を家臣に預けて米沢に送り、天正13年2月17日遂に居城で悲運な戦死を遂げたのである。
 その後、子の上堺左馬之助誉正(平九郎)が成長し、母の菩提を弔うため、慶長3年当寺を建立して、米沢東源寺12世照山関良和尚を勧進して開山したのである。
 ちょっと気になるのが、寺の元々の建立は今の小学校の所という位置情報。ならば、仏眼寺の位置もそちらかなとも思うが、そこは分からない。
by shingen1948 | 2014-04-12 05:49 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)