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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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のりしろ散歩~米沢街道⑥(八島田陣屋跡付近)

 「米沢街道(八島田陣屋跡付近)」として整理しているところだが、「歴史地図」では、米沢街道「笹木野宿附近」の項に八島田陣屋も紹介するという構成になっている。その「笹木野宿附近」の現況の全ての近郷の道筋はこの交差点に集まるといった感じのこの五叉路交差点が特徴的だ。路地まで含めるともっと多くの道筋があるのだが、それをこの五つの道筋に整理されたという感じの交差点だ。a0087378_438165.jpg
 八島田陣屋跡方面からの道筋からとらえているが、この信号を緩やかに左手に曲がりながら進む道筋が、現県道庭坂~福島線。「歴史地図」には、「県令三島通庸明治15年~開発」・「この直線道路施設は近代初頭の道路建設の典型」と記され、その→の先に「至る庭坂湯町明治18年誕生」がメモされる。メモにはないが、その湯町の直ぐ先には三島通庸の邸宅があり、いわばこの県道庭坂~福島線が、県令通勤の道筋といったところかな。

 旧米沢街道の道筋は、この交差点を左折する道筋だ。「歴史地図」では、次のように紹介される。
 「笹木野宿経由の米沢街道は、江戸時代当初に整備、福島の出発点米沢口は現日本銀行秋田銀行間で東北電力あたりを通り森合いから庭坂~李平~板谷~米沢へ」
 現吾妻支所にある野田村道路元標は、元々は「旧米沢街道」と「県道庭坂~福島線」との分岐点でもあるこの五叉路交差点の旧米沢街道の曲がり角に建っていた。
 その道路元標の旧地地点について、「福島の建築 ⑬」の煉瓦工場跡を探す道筋の中でふれている。たった4年前なのに風景が全然違う。この時点の道路元標の旧地地点の建物は撤去されている。ここを捉えている地点は、セブンイレブンの駐車場だったが、今はこちらもない。
 http://kazenoshin.exblog.jp/9828468/

 「米沢街道(八島田陣屋跡付近)」という整理の仕方だが、それよりは「歴史地図」の見方が深いというのは最近気付いたこと。
 「歴史地図」では、米沢街道「笹木野宿附近」の項に八島田陣屋も紹介するという構成になっている。
 八島田陣屋も含め、信達の陣屋は、他地域に本領をもつ大名が飛地領をもつことなった事を起因として、その飛地領に陣屋が構築されるというイメージ。そして、それらの飛地領は、幕府領や旗本領などと相互交換が行われることもあり、その拠点として構築された陣屋は、幕府代官陣屋から藩の飛地領陣屋へ、また、藩の飛地領陣屋から幕府代官陣屋へと転用されたりするということだ。これが一般的なのだと思っている。
 しかし、地域のしがらみを外れてもっと広い視野に立てば、そのイメージが普遍的な陣屋のイメージではないらしいのだ。
 「近世陣屋と町の形態に関する再検討 : 陸奥国南部を事例として(奈良大学紀要37号)」では、信達の陣屋を「陸奥国南部を事例として」陣屋の特殊例として紹介している。
 ここで陣屋の一般的なイメージとするのは、畿内やその周辺を中心とする西日本の地域に多く分布する陣屋。ここでは、小藩の陣屋が集落と一体化して「陣屋町」という小都市の形態を形成するというイメージで、これが一般的とするのが前提になっている。 
 その違いは、小都市の形成と陣屋とのかかわりに影響するようだ。
 西日本の地域に多く分布するというこの小藩の陣屋の場合は、集落の形成過程と密接にかかわっているのに対して、信達の陣屋は、既存の集落に隣接して構築される特殊なイメージ例として紹介されている。
 この見え方を参考にさせていただけば、八島田陣屋の場合、米沢街道笹木野宿という既存の発展した集落に隣接した米沢街道筋の八島田の集落に構築されたということになるかな。

 なお、「歴史地図」の「笹木野宿附近」の項に、奥羽線については「明治18年10月山形県令県民の要望に推され奥羽線敷設計画、工部卿これを拒否、明治32年まで涙を飲む」のメモが記される。
by shingen1948 | 2014-04-08 05:37 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)