地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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のりしろ散歩~米沢街道④(八島田陣屋跡付近)

 「図版福島市史」では、八島田陣屋の沿革については以下のように解説する。
 新発田藩は、 (※寛政元年<1789>11月の) 寛政の村替えで八島田村に陣屋を設け、勘定奉行の支配下の役人若干名が派遣され、大庄屋以下を統括した。勘定奉行は常駐ではなく、定期的に出役していた。このほか郡廻り役があったが、分領の実質的支配は大庄屋に委ねられていた。信夫郡領では八島田村の豪農吉野家が、代々この役をつとめていた。が、文政元年(1818)大庄屋の不正事件発覚してのちは、奉行は常駐となり、陣屋詰役人も強化された。
 文化の村替えにより、陣屋の機構は縮小された。
 ここでいう「文政元年(1818)大庄屋の不正事件発覚」については、先に「義民⑤ ~名主半十郎供養塔」でふれている。ただ、この整理時点では地の人への遠慮があった。しかし、今回「野田村郷土史」など地の人の郷土史にも客観的に解説されている事を確認した。
 http://kazenoshin.exblog.jp/7308974/
 「八島田陣屋見取り図」だが、この八島田陣屋の解説にかかわって掲載される。それで、そこから八島田陣屋そのものの情報を探してしまうのだが、その視点を外すと八島田陣屋周辺の米沢街道散歩情報が見えてくる。
 米沢街道そのものの情報としては、米沢街道の新旧の道筋と街道渠の水路にかかわる情報が読み取れる。
 例えば、陣屋の道筋に向かう付近の米沢街道は、新旧の道筋が重なっているようなのだが、そこから東側の旧道は、新道の南側に逸れた道筋であった事が伺える。また、街道渠は、新旧の重なる街道筋の南側を流れ、その南側の街道沿いの道筋の延長線が、八島田陣屋の南側の米蔵に向かう道筋らしい。その道筋の脇を、その街道渠からの水路だろうか、小川が流れていてこれが八幡社の後方の道筋に沿って流れて行くようだ。

 更に、米沢街道と陣屋の道筋の交差点の左手が年番小屋で、右手に高札場が建っていることも分かる。
a0087378_559367.jpg
 年番小屋や高札場は、直接的に八島田陣屋にかかわる風景というよりは、八島田村の風景とみるべきものなのだろうと思うのだ。教科書的なことを確認すると、「番屋」は、「江戸時代に消防、自警団の役割をしていた自身番の詰所」らしい。その自身番は、地元住民が交代でその役割を担っていたらしい。また、施設としては、木戸番や火の見櫓を併設していることが多かったとも聞く。今でいえば、地域の安全の拠点となる消防団や自衛団の詰所のようなものかなと見回せば、やや東手に消防屯所がみえる。
 勝手に地域の歴史の連続性のようなものを感じている。
Commented by 青木明 at 2015-05-26 06:39 x
幼少年期に、この場所で紙芝居を見ました。1人2円程度。
長じては、父の変わりに火の用心の夜回りをした詰め所です。
八島田駐在所の子供とは、二度とも同級生でした。
泥棒ごっこ、見っけどん(誰々どん)等々、上級生指導の集団遊戯。
野田小学校、野田中学校で学びました。去年50年ぶりに感傷旅行。
福島市八島田駐在所の位置は変わらず。詳細な研究に敬服します。
Commented by shingen1948 at 2015-10-22 18:34
コメントありがとうございます。対応遅れてすみません。古いパソコンが完全に壊れ、ようやく新しいパソコンにしたところです。
ここは自分の原風景ではないのですが、懐かしい風景という思いは分かります。
自分の原風景を思い出しました。
by shingen1948 | 2014-04-03 06:00 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(2)