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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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のりしろ散歩~米沢街道③

 八島田陣屋付近は、「歴史地図」では「笹木野宿付近」として解説される中心的な風景に重なっているので、「のりしろ散歩」ではなくなる。ただ、位置的には野田村の北縁でもあるということで、そのまま続ける。

 その八島田陣屋跡の現況は、宅地になっていてその面影をとどめない。「野田郷土史」では、次のように解説する。
 八島田陣屋
 この陣屋は字本庄町にあった。
 寛政元年八島田村以下11カ村1万3千石の代官所で、越後国新発田藩溝口伯耆守主膳正の離れ領を支配していた。以降明治維新まで数々の事跡を残し、中でも文政元年凶作の年、救助米を横領した名主頭を直訴した義民半十郎の侠勇や、安政4年陣屋の役人、粂幸太郎の親の敵滝澤休右衛門を陸奥の祝田浜で討った孝子伝等は、歴史上有名である。
 今、この地は東北興業会社福島工場の社宅となっているが、昔を偲ぶ陣屋の氏神「本庄稲荷」の石宮が残っている。尚陣屋の門で扉には唐金の筋金が張ってある「筋金御門」は廃藩の際、名主加藤伴三郎に下されたので、同家の門としてあったが、現在は取り払われてしまった。
 筆者郷土の記念として、昭和10年、同門の写真を撮ってある。
 想像の手掛かりになるのは、「ふくしまの歴史」や「図版福島市史」に記される「元名主加藤家控えより佐藤直政作成の元図による」「八島田陣屋見取り図」だ。
 八幡社地の移動がないと仮定して、絵図と照らし合わせて、その空間的な位置や配置を勝手に想像する。
 おおよその位置を現駐在の付近が西端で、北が八幡社の参道へ続く道筋、南側が街道筋と想像する。
a0087378_693614.jpg
 陣屋の門だが、陣屋の西手の道筋の現駐在の付近のこのあたりと想像するがどうだろうか。
 ここに、絵図に屋根付きで、「表門(条金御門)」と付記されている「扉に唐金の筋金が張ってある筋金御門」を想像すれば、絵図にはその門を入って右手の陣屋の建物に続く道筋が描かれる。
 「八島田陣屋見取り図」を漠然と見ていた時には、「陣屋」と「米蔵」が目についたのだが、確認していくと、その陣屋の建物に続く道筋の途中に「牢屋」があるのが気になる。そして、その牢屋に着目すると、その南側の建物が「道場」となっているのだが、そこに「兼吟味場」と付け加えがあるのだ。これが、門を入った正面の位置になる。その「道場」の東手が「吟味道具入れ」となっている。

 時代劇から得る想像を重ねれば、この「吟味場」というのは、警察機能を執り行う部屋ということであり、いわゆる「御白洲」があって、その奥には仮牢があるという想像イメージとなる。この道場とされる大広間は、警察機能を執り行う陣屋の重要な場所で、玄関は南向き、「吟味道具入れ」にあるのは取り調べ用拷問器具のはずだと勝手に想像を膨らます。
 その吟味の拷問を一般的な情報として確認すれば、公式には1742年に公事方御定書が制定されてからは、笞打・石抱き・海老責・釣責の四つが拷問として行われたとのことだが、代官が自分だけで事件の審理ができる(手限吟味)のは、事件関係者がその支配地の者か無宿者の軽い罪とのことだ。また、当時の軽い罪での吟味は笞打・石抱きとのこと。ならば、その吟味道具は、三角に尖った責台・先がささくれている箒じりなど、それに抱き石かなと勝手に想像する。

 現在の交番付近で、これ等江戸時代の警察機能が展開されていたということを勝手に面白がっているのだが、そういう意味では、街道からこの陣屋への道筋への入り口に「年番」小屋があり、現在の交番や消防団の詰め所が近いということも成程なぁとこれも勝手に楽しんでいる。
by shingen1948 | 2014-04-02 06:22 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)