地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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のりしろ散歩~米沢街道附近~「藤権現碑」②

 この辺りは鎌倉末期から歴史を刻むという見え方らしいのだが、その指標となる遺跡が「藤権現碑」のようだ。
 ここに永仁五年が刻まれているということなのだろう。他は同じような時期から歴史を刻むようだという状況的な類推によるように感じる。
 その「藤権現碑」の案内柱はよく読めなかったので、読めたことから類推したところだったが、水熊さんから以下の案内との情報を頂いた。a0087378_68427.jpg
 清合内藤権現の由来
 此の処、岩代の国信夫郡八島田の里、後に清合内の地名なり。水清き流れあり辺りに一宇ありて童達が唯一の遊場なりき。鬱蒼たる藤の大木あり、夏は冷風と藤の花見に村人は集まりしと伝え聞く。頃は永仁五年今より六百八十四年前、伏見天皇の御代より1297年鎌倉幕府は弘安の役等内外の乱世を鎮むる為め、各地に名僧を遣わし民心の安定をはかれし由。此の集落にも其の頃旅の僧来たり。自ら大石に刻まれ傍らの清水に水ごりをとられ、ひと廻りの祈願をされて立去りしと言う。後々村人は藤権現と敬み無病息災、家内安全、五穀豊穣をされしと古老の言い伝えなり。此の地一帯を清合内と称する由因なり。
 昭和56年4月 旧八島田史跡保存会 藤権現講中
 この地域にどのような影響を及ぼしていたのかは知らないが、「永仁五年」がからむ教科書的な事項を確認しておく。

 この時代(鎌倉時代の後半)になると、元寇の恩賞に関する問題等が発生し、御家人は困窮していく。それで、幕府は徳政令(永仁の徳政令)を出すなどして御家人救済に努めるのだが、それでも解決には至らず、各地で悪党と呼ばれる者が活動を始め、幕府と御家人との信頼関係も薄いものとなっていく時代。
 そんな中、天皇親政を志す後醍醐天皇が即位し、時代が大きく動き始める転換期という時代背景。

 「藤権現碑」建立の永仁五年は、その転換点である永仁の徳政令が出された時期と重なるということのようだ。
 この「永仁の徳政令」も確認しておけば、鎌倉幕府第9代執権北条貞時が発令した日本で初めての徳政令とされるとか。そのおもな内容は、①今後御家人所領の売買・質入れを禁止する②すでに売買・質入れされた所領は,無償で本主に返付させる③ただし買得安堵状を下付されたもの,または20年の年紀を超過したものは除外する④債権債務に関する訴訟を受理しない。債権確認の下知状をもつものでも、債務不履行の訴えをとりあげない⑤)越訴(おつそ)制を廃止するの5点。

 現代の感覚からみれば、無理な横槍にもみえる法令だが、古代人から続く思考法では必ずしも特殊なことという見え方ではなく、民衆生活や社会習慣を反映した見え方でもあるらしい。
 それは、天皇が一年限りの暦を持って居られて、これが一年毎に総てのものをリセットしてしまうという見え方とのかかわりのようだ。何もかもが元に戻って復活するというリセット信仰ともいえる見え方かな。
 永仁ということ自体、正応6年に天変と関東の地震を理由に改元された時代のようで、これも天変地異がリセットされたという感覚とかかわるのだろうな。
by shingen1948 | 2014-03-25 06:12 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)