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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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のりしろ散歩~米沢街道附近~「藤権現碑」と「弁慶の御山隠し」③

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 「立石権現」(=「立石」=「清合内前供養塔」=「弁慶の御山隠し」)が現在地に移される前に、右手のトラックのあたりで見ている。
 ここが旧地で、「立石権現の由来」の案内柱にある「此の所奥州信夫郡八島田の里旧米沢街道添い」といわれている「此の所」のようだ。消防団の分所前の道筋につながる道筋が、旧米沢街道だろうか。
 紹介いただいた資料が描く祭りが行われていたのもここだろうと思う。
 その祭りの由来は、次のように紹介されている。
 立石には手のひらのようなあとと刀で切りつけたあとが残されこの石の前で人が殺されたとき残ったものだと地区の人々は信じている。
 その話によれば、13、4年にかけて病気がはびこり、死人が続出したのだという。
そこで須川の神主におはらいをしてもらったら「殺されたもののたたりだ。お祭りをしないと集落は全滅」とおどかされて旧の3月15日にお祭りをはじめたが、さてどんなことをしてよいか判らない。「形式ばらずにわれわれも楽しむことにしよう」と変わった祭りがはじめられたもの。
 変わった祭りというのは、集落の人々が茶菓子などを持ち寄って集まり、立石の前にゴザを敷き、七輪で湯を沸かし、茶を飲みながら男も女も子供も交って雑談にひとときを過ごすだけということ。
 この記事の時代、自分にも大人の「祭り」の創作の記憶がある。それが懐かしいのだが、その後、効率とか経済とかということの優先順位の時代になって祭りも消えて行ったという自分の時代認識の記憶と重なっている。

 前回、この祭り由来とかかわりながら、その石の遺跡としての価値について、祭りの由来を否定することなく解説する配慮にふれた。
 それは、福大庄司吉之助教授がその「石の由来や刀傷といわれているものが文字ではないかと熱心に研究を続けている」と紹介していることだ。
 最近の資料をみれば、この大石は、結論的には胎蔵界大日如来をあらわす種子が刻まれた供養碑らしいということになるらしい。そのことを直接的に言わないで、刀傷の言い伝えを、人工的な加工ととらえて、やんわりと種子が刻まれた供養碑であることを紹介するという配慮だ。
 専門家が永年の研究の結果、文字ではないかというところにたどり着いたというふうな表現にその配慮を感じる。
 なお、「野田村郷土史」は、この碑を鎌倉時代に建立された阿弥陀如来の大石碑と推定している。「歴史地図」では、供養塔かなという感じの記載。「ふくしまの歴史」では、「ア」という胎蔵界大日如来をあらわす種子が刻まれた供養碑とする。

 現在地に建つ【立石権現の由来】案内柱の解説
 
此の所奥州信夫郡八島田の里旧米沢街道添いにてその昔永任年間今より七百年前伏見天皇在位の頃此の地方年々凶作に見舞われ○○く○○せし○京より下りし高僧が民心安定の為亦旅人の安全と悪病退散を祈願し……。
 後半の「その昔永任年間今より七百年前伏見天皇在位の頃此の地方年々凶作に見舞われ○○く○○せし○京より下りし高僧が民心安定の為亦旅人の安全と悪病退散を祈願し……。」の部分は、「藤権現碑」が永仁五年であり、それと同時代との推定からの解説と想像する。
by shingen1948 | 2014-03-17 05:58 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)