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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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のりしろ散歩~請(清)合内附近の米沢街道情報

 旧米沢街道の道筋と新道が交差する付近に、この昭和2年建立の道標が建つ。a0087378_5212745.jpg
  「至庭坂」の案内は、米沢街道の行き先を示し、「経清水村至飯坂」の案内は、米沢街道の道筋と泉村への道筋の交差点である事を示しているようにも思われる。ただ、この裏側に「南至下野寺」との案内もあるので、この道標が、先に「2代目金子周助建立伝神社・仏堂②~長泥観音堂?」で整理した長泥観音堂に続く道筋との交差点から移動された可能性もある。

 この旧米沢街道の道筋と新道が交差する付近から、旧米沢街道の道筋も曖昧になる。
 「歴史地図」は、おおよそそのまま西進し、沼田を回り込んで、新道が奥羽本線と交差した後の道筋を越えて、中ノ町からの道筋の交差を意識した道筋を描き、そこから西進するように描く。
 「信達ニ郡村誌」が紹介する米沢街道は、「清合内より下野寺に入り、3町7間にして復び本村台に入り、西に赴き笹木野村の経界を為し16町6間にして桃木町、上台畑の間より西隣より笹木野村に入る」であり、この道筋と矛盾しない。

 半沢氏の「歴史地図」には、もう一つの旧米沢街道説が紹介されている。
 それは、プロットされた清合内供養塔(藤権現)の位置から西進する道筋だ。
a0087378_5345634.jpg これは清合内踏切の北側から米沢街道の新道と旧道の交差点を見ているが、気になっていたのが、その清合内供養塔(藤権現)がプロットされる位置は、この清合内の踏切の左手地点にプロットされるのだ。この位置は、先に整理した清合内供養塔(藤権現)の位置とずれている。
 しかし、これにかかわる以下の藤権現移動経緯情報コメントを水熊さんから頂いた。
 藤権現は清合内の道端にありましたが、昭和63年の雨水工事の際に、八郎内の織田鯉店さんの敷地に移されました。ふたつ山公園にある案内板の地図は八郎内の位置です。そして2年程前、住宅メーカーが一帯を整備した際に、円光寺の境内に移されました。
 この情報と照らし合わせれば、先に整理した位置は八郎内の位置らしい事が分かる。半沢氏がプロットする位置が、元々の清合内供養塔(藤権現)旧地らしいということになりそうだ。
 それを考慮して、もう一つの旧米沢街道筋説をみ直せば、この道筋も「信達ニ郡村誌」がいう米沢街道の道筋と矛盾はなさそうに思う。ただ、「街道北」とは矛盾しそうだが、森合郷土史に掲げられる明治24年(1891)の地図でも、三島氏の通勤道である新道は開通しているようなので、この矛盾は無視できそうにも思う。
 それよりも気になるのは、この清合内地域付近で、米沢街道と泉村への道筋が交差するらしいことだ。
by shingen1948 | 2014-03-08 05:40 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)