地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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のりしろ散歩~米沢街道附近~「藤権現碑」と「弁慶の御山隠し」

a0087378_43134.jpg 二つ山公園に建つ地域の案内板には「藤権現碑」がプロットされる。現在「藤権現碑」は光禅寺にあるが、そのプロット位置は、円光禅寺ではない。
 「森合郷土史」によれば、その前の旧地は八郎内であり、その前が元々の旧地である清合内とのことだった。そのどちらがプロットされているのかという事だが、地図と照らし合わせて見ると、清合内らしいことがわ分かる。つまり、元々の旧地をプロットしたと思われるという事だ。
a0087378_492723.jpg その「藤権現」がプロットされる現地が、この辺りらしいと推定して、その風景を確認する。
 「森合郷土史」によれば、そこは清流が流れていて藤の大木があったという。地域の方々は、夏には涼風を求めて藤の花見をした場所であり、子供達のよい遊び場にもなっていたとも。
 確かに、この手前の東西に走る道筋の端の両方とも水路に続いていて、これが「清流が流れてい」る風景の痕跡かなと思う。

 ちょっと気になるのが、「野田村郷土史」のこの位置の表現だ。
 二つ山公園に建つ地域の案内板では、「立石権現」の現在の位置に移動する以前の位置がプロットされるが、「野田村郷土史」を素直に読めば「立石権現」の旧地もここらしいと読み取れるのだ。
 
 先に「野田村郷土史」の「藤権現」の項に「前述の地(弁慶の御山隠しの地)にある阿弥陀如来の碑で、建立も同年代といわれる。昔この付近が藤の花の名所であったので、何時かこの名が付けられてきた」とあることは記したが、実は、この前に「弁慶の御山隠し」の項があって、以下のように解説されているのだ。
 「弁慶の御山隠し」
 八島田字請(清)合内にあり、別名「立石」ともいい、阿弥陀如来の大石碑である。建立は鎌倉時代と伝えられるが、弁慶がこの碑の陰に休んで御山を拝もうとしたが見えなかったので、この名が出たと伝えられる。
 次に「藤権現」の項があって、この「藤権現」の位置を「前述の地にある阿弥陀如来の碑」と表現しているのだ。
 「藤権現」と「立石権現」の旧地は同じ場所とも読み取れるのだ。

 住宅地になっていて現地ではその視点での確認はできないが、地図上では次のような想像ができる。
 ここから御山方面を眺めれば、その手前に一杯森がある。まずは、大石の影になるのは、この一杯森だろう。そして、この一杯森の陰になるのが御山ということではないかな。
 深読みすぎかもしれないが、想像は自由という事で、この「弁慶の御山隠し」に相応しいのはこの位置関係かもしれないなと思う。
Commented by 水熊 at 2014-03-08 00:05 x
立石権現(弁慶の御山隠し)について、佐藤直政『野田村郷土史』に「八島田字請(清)合内にあり」とありますが、正確には清合内前です(平成元年の住居表示で野田町4丁目の一部になりました)。
このあたりは清合内が栄えていたので、佐藤氏も誤記されたのではないでしょうか。清合内前の南には立石南という小字もありました。『福島市史』などの史書には、藤権現は清合内供養塔、立石権現は清合内前供養塔の名で載っています。
立石権現も2年ほど前に八島田街道沿いに移されました。
『福島市史資料叢書』第53輯 新聞資料集成に「立石のヤクをはらう」として昭和31年の新聞記事が載っています。当時の写真もあって「弁慶の御山隠し」の由来がよくわかるかと思います。
Commented by shingen1948 at 2014-03-08 05:51
またも、情報ありがとうございます。
2年ほど前に八島田街道沿いに移されたという旧地は、旧米沢街道道筋ですよね。清合内前からそこに移され、更に現在地に移動したという理解でよいのでしょうか。
弁慶の御山隠しの由来は、ぜひ確認してみたいです。
Commented by 水熊 at 2014-03-08 14:26 x
立石権現(清合内前供養塔)が動かされたのは、私の知る限り2年ほど前の一回だけです。
昨日地図を添付してみましたが、八島田街道の一本北側の道の脇にあったのが、現・八島田街道沿いに移されました。下から何も出てこなかったので、近所の人は安心したと聞いています。
立石権現の旧地(以前は清合内前の小字でしたが現在は野田町4丁目です。住居表示で清合内前が小さくなってしまいました)、現・八島田街道の一本北側の道が、旧米沢街道という説があります。また触れられている通り、奥羽線の北側の道、そちらが旧米沢街道という説もあって混乱しますよね。
古老に聞いたところでは、昔このあたりは旧松川によると思われる崖が数筋あって、その崖際が道になっていたそうです。また円光寺の中を流れていた小川が清合内を通っていたとも聞きました(別記事の赤と黄の線で追われていた道がおそらくその小川に沿ったものだと思います)。
Commented by shingen1948 at 2014-03-11 16:32
遅れてすみません。
矢張り、元々旧米沢街道筋といわれる位置にあったということですね。
「野田村郷土史」も気になったのですが、もう一つ、半沢氏の「歴史地図」の「清合内前供養塔」に?マークがついていたことです。フィールドワークでの確認を信条としていた半沢氏がつけた?マークの意味は何かなということもありました。
確かに、マホロンの遺跡検索地図では、「清合内前供養塔」跡は、旧米沢街道筋の位置にプロットされています。
by shingen1948 | 2014-03-06 06:00 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(4)