地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28

のりしろ散歩~米沢街道附近~「藤権現碑」

a0087378_64981.jpg
 円光寺参道の右手の大石の側に、「藤権現」の案内柱が建つ。説明はよく読めない。
 読み取れたのは「此の處岩代の国」「八島田の里○に清合内の地名なり、水清き流れ○り、辺に」「藤の大木あり夏は涼風と藤の花見に」「聞く」「今より684年前○見天皇時代、鎌倉幕府は弘安の役」「むる為め此地に名僧」。
 「森合郷土史」は、「八島田の板碑」の項でこの「藤権現」を解説する。その由来解説は以下のようだが、その内容を意味しているのだろうと推測する。
 もともと藤権現が建っていた場所は、清流と藤の大木があって、近くに住む子ともたちの唯一の遊び場だった。弘安の役などの戦争が続き、鎌倉幕府は民衆の不安を取り除くため、各地に名僧を派遣した。この地にも僧がやってきて、清流で体を清め、大きな石に権現を刻み、平和を祈った。
 
 更に、掲げた写真の解説では、「清合内供養塔とも。大日如来をあらわす種子が刻まれている永仁5年(1297)建立の板碑。野田町字八郎内」とする。
 本文説明では、大日如来をあらわす種子の下に「永仁5」が刻まれているとのことだが、確認はしていない。「福島市の文化財 福島市文化財調査報告書 25」によるらしいという情報をみるが、こちらも確認はしていない。
 なお、「野田村郷土史」では、「前述の地(弁慶の御山隠しの地)にある阿弥陀如来の碑で、建立も同年代といわれる。昔この付近が藤の花の名所であったので、何時かこの名が付けられてきた」とある。

 ちょっと気になるのが、「森合郷土史」編纂の時点では、この碑は「八郎内」地内にあったらしい事が読み取れたこと。
a0087378_6545053.jpg
 それで、「八郎内」を確認していたら、八郎内を走る道筋が、昭和4年の「福島都市計画区域図」に示される道筋なのではないかなと思えたのだ。
 昭和4年の「福島都市計画区域図」の図と照らし合わせながら、その道筋をたどってみる。紺色線が字界線で、このラインの右側は道筋ではなく水路のラインらしい。
 赤い線が、地図に描かれたラインにほぼ間違いないのではないかなと思う道筋で、黄色い線が、多分こんな感じでつながっているかなと思う推定の道筋ラインだ。ちょっと気になっているのが、その近くの切れた曲線ラインで、こちらかなという迷いもある。
 他の道筋は描かれていないので、この時代の主要な道筋なのだろうと勝手に推測する。
Commented by 水熊 at 2014-03-08 00:09 x
藤権現は清合内の道端にありましたが、昭和63年の雨水工事の際に、八郎内の織田鯉店さんの敷地に移されました。ふたつ山公園にある案内板の地図は八郎内の位置です。そして2年程前、住宅メーカーが一帯を整備した際に、円光寺の境内に移されました。
劣化してしまった案内柱の内容は以下の通りです。
−−−
○清合内藤権現の由来
此の処、岩代の国信夫郡八島田の里、後に清合内の地名なり。水清き流れあり辺りに一宇ありて童達が唯一の遊場なりき。鬱蒼たる藤の大木あり、夏は冷風と藤の花見に村人は集まりしと伝え聞く。頃は永仁五年今より六百八十四年前、伏見天皇の御代より1297年鎌倉幕府は弘安の役等内外の乱世を鎮むる為め、各地に名僧を遣わし民心の安定をはかれし由。此の集落にも其の頃旅の僧来たり。自ら大石に刻まれ傍らの清水に水ごりをとられ、ひと廻りの祈願をされて立去りしと言う。後々村人は藤権現と敬み無病息災、家内安全、五穀豊穣をされしと古老の言い伝えなり。此の地一帯を清合内と称する由因なり。
昭和56年4月 旧八島田史跡保存会 藤権現講中
−−−
北条時頼の廻国伝説を思わせるような由来ですよね。
Commented by shingen1948 at 2014-03-08 05:44
情報ありがとうございます。
半沢氏の「歴史地図」がプロットする藤権現の位置とのかかわりですっきりしました。
言い伝えですが、大切にしたいですね。旧仏教に対する新しい武家的体制仏教の確立を目指す過程の深読みもできそうにも思えます。どこまでが史実でどこまでが虚構かは分かりませんが、いろいろな想像が触発されますね。
by shingen1948 | 2014-03-04 06:57 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(2)