地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28

2代目金子周助建立伝神社・仏堂⑩~奥玉神社と羽黒神社②

 神社仏閣の建立には、普通は権力者の財力とか権威の象徴的なものがちらつくもの。立派な建物を建立するには、それだけの財力が必要なはずなのだ。羽黒神社の方には、時の権力者の庇護もあったように紹介される。しかし、「福島市史」が「華麗な大建築が出現したのに刺激されて西在地方民の強烈な信仰と工人達の熱意」と紹介するように、西在地方民の強烈な信仰と工人達の熱意が強調される。
 これも、西の奥玉神社建立にかかわる特徴の一つだろうか。

 立派な建物を建立するための材料の吟味はどうしたかということだが、「奥玉神社由緒」解説には「○○地区の村々から大ケヤキを集め造営されたものが本殿で、当時の氏子崇敬の信仰心がうかがわれる」とある。「下村物語」では、村の若者が中心になって再建の工を起こしたと紹介する。
 勿論、西在の名士達がそれなりの熱意と財力の提供を示した事は想像に難くはないのだが、西在にある大ケヤキを、西在の若者を中心とした労力によって運び出し、「工人達の熱意」でもって完成させた側面が大きいということなのだろう。

 このことは、2代目金子周助建立伝にかかわる神社・仏堂を確認した時にも感じたこと。
 西在の村々には、必ず各村に神社か仏堂があるのだが、村として建立したというよりは、住民の私的な意思によって建立されていた。この奥玉神社は、その西在の神社や仏堂の総社としての建立意識を感じたことを付け加えておきたかった。
 今まで風景としてみていた小さな神社・仏堂が、庶民の闊達な信仰心を力強く感じながら見えるようになっていて、この奥玉神社もその庶民の闊達な信仰心が結集された総社という見え方になっているということだ。

 関連することを確認しておく。
 「金子周助建立伝神社・仏堂」を整理しようと思ったのは、「山王道(土湯道)と調地田の道標~吉倉散歩」がきっかけ。羽黒神社建立は、その初代金子周助氏もかかわるわけだが、この神社が消滅した。
 http://kazenoshin.exblog.jp/18754117/
 自分が知る範囲では、現在その初代金子周助氏の仕事は、「成田薬師堂」で、その事については以下のように整理した。
 ○ 成田薬師堂~吉倉散歩~福島の建築42
 http://kazenoshin.exblog.jp/18789794/
 ○ 成田薬師堂②~吉倉散歩~福島の建築43
 http://kazenoshin.exblog.jp/18797473/
 ○ 成田薬師堂③~吉倉散歩~福島の建築43
 http://kazenoshin.exblog.jp/18807165/

 案内板によると、その金子周助一団の仕事らしいのが、「吉倉八幡社」。
 ○ 吉倉八幡社~吉倉散歩
 http://kazenoshin.exblog.jp/18760085/
 ○ 吉倉八幡社②~吉倉散歩~福島の建築42
 http://kazenoshin.exblog.jp/18769065/
a0087378_641751.jpg
 確実ではないが、奥玉神社の建立にかかわった「巳代吉」と同じ方ではないのかなと思うのが、以下のように整理した菅原の淡島様。
 北側の面に「町大笹生 巳代吉」と名を刻んであるように思うのだが、……。違うかな?
 ○ 粟島信仰④~2012の立春の頃の風景⑩
 http://kazenoshin.exblog.jp/14686158/
by shingen1948 | 2014-02-04 06:06 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)