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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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2代目金子周助建立伝神社・仏堂⑧~奥玉神社③

 今回確認した2代目金子周助建立伝神社・仏堂のうち、出身地の下野寺の猿内山王(猿内の日枝神社)、小針地蔵堂、醴(あまさけ)観音堂、長泥観音堂は、初代金子周助である寄吉氏の弟子の時代の建立のようだ。「野田村郷土史」では、宮大工信夫の太子様「阿部幸吉」として、この時代の幸吉氏について以下のように紹介する。
 字猿内阿部孫四郎氏の4代前の当主善三郎氏の弟であって、大工の業にかけては天稟(てんびん)の才があり、大森村の名匠、金子家の養子となったが、神社、仏堂の建立については、当地方では右に出る者なく、本村に現存する社堂では、猿内の山王宮・醴(あまさけ)観音堂・小針地蔵堂・長泥観音堂・その他御山羽黒神社等信達の神社、仏閣は殆ど氏が手を掛けている。…
 完成した年代を並べれば、2代目金子周助がこの奥玉神社建立(弘化4年(1847)9月)にかかわるのは、弘化2年(1845)の信夫山の羽黒神社の再建2年後ということになり、「信夫の太子様と仰がれる程の立派な宮大工」との名声を得た後の話になる。
 しかし、実際には、この神社の再建の工を起こすのは天保11年(1839)であり、ここから弘化4年(1847)9月まで工事は続いているということだ。つまりは、信夫山の羽黒神社の再建とは、少なくとも6年間の重なりがあって、同時進行であった事が分かる。しかも、この間に初代金子周助氏が亡くなり、婿養子に入り(つまりは結婚があって)、羽黒神社の再建の仕事引き継ぎをするという事柄が重なっているのだ。
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 この神社建築の棟梁が清和次郎兵衛氏であり、脇棟梁が亀岡繁右衛門氏と矢吹儀助氏であり、「信夫の太子様と仰がれる程の立派な宮大工」である金子幸吉氏が、彫工に名を連ねるだけなのは、この事とかかわるのだろうと勝手に想像する。

 ちょっと気になるのは、羽黒神社の再建の初代金子周助氏が介添え大工としたのが源吉氏ということ。この源吉氏は、大笹生出身の初代金子周助(寄吉)の弟子らしい。他に、桜本の浅吉・成田の兵五郎・彦治及び赤川の清八など大工小工27人が名を連ねているという。 
 彼等は、皆2代目金子周助である幸吉氏と同輩の工匠であるのだろうと思うのだ。名はなさなかったが腕は確かな人々だったことは想像に難くない。それだけ多くの腕の立つ大工さん小工さんの存在が浮かぶ。
 このことと、「福島市史」にある、幕末から明治初年にかけてこれらの工匠が活躍し、さらに米沢、新潟、三春、二本松などの工匠も技を競って社寺建設が盛況を迎えたとの記述と重なるのではないかなと思うのだ。
 この頃の茂庭の白鳥神社本殿、立子山篠葉沢稲荷、水原丹野家の丸森地蔵堂などがにかかわる棟梁も、そういった方々の中の一人なのだろうな。
 なお、信夫山の羽黒神社と奥玉神社建築の両方に名前が確認できるのは成田村の彦治さんぐらいかな。
 ※ 「野田村郷土史」に「大森村の名匠、金子家の養子となった」とあるのは、現在、成川村が大森村と合併されていることによるものと思われる。今回の整理では、この時代の村の意識とのかかわりで、成田村あるいは、成田村+鳥川村で成川村としているが、このことと同義だと思う。
by shingen1948 | 2014-01-27 06:49 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)