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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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2代目金子周助建立伝神社・仏堂⑤~猿内山王

 今まで、2代目金子周助建立の言い伝えがあるという仏堂を整理したが、出生地の「猿内山王」の神社も彼の建立という言い伝えがあるとのこと。
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 「猿内山王」は、多分「猿内の日枝神社」のことだろうと思う。日枝神社は、山王神社、日吉神社と共に、山王信仰にかかわる神社とされるからだ。天台宗との神仏習合期には、一般的に山王、山王権現、日吉山王などと称されていたという。
 地域名の猿内の「猿」が気になり、勝手に原始信仰の日吉神社の神使が猿であるとされることとかかわらないかなと想像もするが飛躍しすぎかな。ただ、中に猿の札も見える。

 a0087378_644118.jpg まだ整理はしていないが、先にこのあたりを「猿内舘」として散歩している。その見え方でみればこんな感じ。この「猿内舘」の散歩では、この猿内の日枝神社は、その舘の北東隅の指標という位置づけだった。
 「猿内舘」について確認すれば、築城者は佐藤忠信に仕えた安田備前守義徳の言い伝え。「ふくしまの歴史」によれば、この人物は、奥州藤原氏と源頼朝の鎌倉軍がたたかった衣川の戦いで戦死したとの言い伝えがあるようだ。
 この舘の大きさは、地籍図を基にして東西約110m×南北約165mの方形舘ではないかと推定されるとのこと。ただ、この一帯は宅地化、近代化が進んでいて、散歩の中でその痕跡をみつけるのは難しい。マホロンの遺跡データ検索で位置を確認すると、舘とされる北側と東側の縁近くを市道が十字に走っている。
 ここは、それらをイメージして位置確認をするだけだが、近くに同じ時代の舘とされる「佐藤四郎兵衛舘」があって、こちらは土塁らしい盛土や堀らしい窪地が見えて、成程舘跡かもしれないなと想像が広がる。

 信達の里の三山王は、宮下、下鳥渡、霊山の日枝神社とのことで、これらはその郷の村の総鎮守的な存在のようだ。
 それに対して、この猿内の日枝神社は、小針地蔵堂、醴(あまさけ)観音堂、長泥観音堂と同じように、その地域(村)の住人達の信仰的なきづなで管理されているのではないかなということは、修理の記録札から伺える。
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 2代目金子周助建立の言い伝えとのかかわりだが、奉造立山王大権現一宇の2枚の札がかかげられているが、そのうちの左手の札の右手下に「大工阿部幸吉」が見える。
 ここでは2代目金子周助建立の言い伝えが確認できたということでいいのかな。
 ※ 「大工阿部幸吉」であることから、「醴(あまさけ)観音堂」同様、ここの建立は、初代金子周助の弟子の時と解される。従って、ここも初代金子周助氏が没する天保9年2月2日以前であり、羽黒神社造営以前のことということになることを付け加える(2014/1/22)。
 ※ 猿内山王が建つ「猿内舘」が、中世の舘跡であるとの言い伝えを確認する中で、小針地蔵堂の境内が、中世の板碑群の遺跡らしい事を確認した。
 それぞれの建物の建立年代は不詳とされるが、少なくとも、小針地蔵堂附近は、中世時代から板碑を建てる場所であったということではあるらしいということでもあるので、「2代目金子周助建立伝神社・仏堂④~小針地蔵堂」に付け加える(2014/1/20)。
by shingen1948 | 2014-01-21 06:52 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)