地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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2代目金子周助建立伝神社・仏堂③~醴(あまさけ)観音堂

a0087378_655355.jpg ここも、地域の近代化に伴って字名が変更になっている。しかし、この辺りの旧小字名は残されていて、醴という地区の呼称は健在だった。(先にこの地区呼称が消滅したとしたが、2014/1/17に修整した。)
 この観音堂には案内板が建っていて、ここが「醴(あまさけ)観音堂」であることはすぐ分かる。それだけでなく、「醴(あまさけ)」地区という呼称由来の言い伝えも解説されている。
 更に、この建立伝が「下野寺字猿内出身の宮大工で幸吉と云う人」とあるので、「2代目金子周助伝」の建物である事が分かる。

 詳しく見れば、「下野寺字猿内出身の宮大工で幸吉と云う人が弟子の時に」とある。「弟子の時に」ということだが、これは、初代金子周助の弟子の時と解される。従って、建立年代を「幕末の頃」とするのだか、その年代がもう少し絞れる。
 この解説で、初代金子周助氏が没する天保9年2月2日以前ということになり、少なくとも羽黒神社造営以前のことということになるのだろう。
 この解説の後半で、「後に信夫の太子様と仰がれる程の立派な宮大工となったと云われます」とある。このことは、内容的には、初代棟梁金子周助の名を受け継いで羽黒神社の造営の大役を立派に果たし、信夫の里では名声を得たという事を現すのだろう。それを「信夫の太子様と仰がれる程の立派な宮大工」という紹介表現がいいな。

 解説の中で、もう一つ着目したいのは、この案内板を建てたのは「醴(あまさけ)観音講」ということ。
 つまりは、この御堂の維持管理は、地域集団が主体的に行っているということらしいということだ。その運営費が寄付によって行われたともある。
 「長泥観音堂」は、その案内板から町内会の維持管理になっているようだが、その原形は、この観音堂と似ていたのではないかなと勝手に思う。
 醴(あまさけ)観音堂の由来
 信達準坂東第24番札所
 本尊 準提観世音菩薩
 福島市下野寺字醴7-1
 祭礼日 旧7月10日
 ご詠歌
 比ひなき御寺(みてら)の甘露(かんろ)を甘酒(あまさけ)と
                              かもして人に慈悲を施す
a0087378_68613.jpg この観音堂は、昔から多くの人々に篤く信仰され、大変慈悲深く、しかも子供達をよく見守り育ててくれた有難い観音様です。
 戯曲太閤記で有名な摂津の尼崎から光秀の家来大石某が、奥州に下り当地に居を構えた時、捧持(ほうじ)してきた観音様を祀ったと伝えられております。
 当時は尼崎観音様と云っていたのが段々訛(なま)って「アマサケ」となり、地名を書く時に醴(あまさけ)となったと伝えられております。その当時の面影が残る観音様の版木もみつかり、又、近くには石碑もあります。
現在のお堂は幕末の頃、下野寺字猿内出身の宮大工で幸吉と云う人が弟子の時に信仰のために寄進造営したもので、氏は後に信夫の太子様と仰がれる程の立派な宮大工となったと云われます。
 そのお堂も永い間風雨にさらされ荒廃しましたので、この度多くの方々より寄附をいただき立派に修復することが出来ました。
 これからもよく見守ってお詣(まい)りしてください。
 昭和61年8月
 醴(あまさけ)観音講
 ※ 長泥観音堂も醴(あまさけ)観音堂も明らかに仏堂なので、「2代目金子周助建立伝神社」としていた標題を「2代目金子周助建立伝神社・仏堂」の標題に修正した。
 ※ 【醴】こざけ
   昔,米・麴(こうじ)・酒をまぜ,一夜で醸造した酒。現在の甘酒のようなもの。
 ※ この御本尊である準提観世音菩薩様は、密教の仏様であり別名準提如来とも。この観音は流派によっては如来部に属するとの解釈もあるという。密号は最勝金剛で、無量無数の仏の母であり、最も優れた仏という意なのだとか。
 ※ ここが、信達準坂東第24番札所とあり、長泥観音堂が信達準坂東第24番札所の可能性を推定するが、今のところ、他に信達準坂東15番札所が福島市庄野茶畑屋敷の法輪寺という情報以外みていない。
by shingen1948 | 2014-01-17 06:10 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)