地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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2代目金子周助建立伝神社・仏堂②~長泥観音堂?

 2代目金子周助は、初代金子周助の弟子の幸吉で、婿養子に入って後を継いだという。その幸吉は、下野寺村生まれで、継父(初代金子周助)の意志をついで、羽黒の大社殿を完成させる。
 最後に整理したいと思っている下村の奥玉神社本殿の他に、出生地の猿内山王・醴観音・小針地蔵堂・長泥観音堂なども幸吉の造作とされ、遠くは、相馬郡小高町の甲子稲荷社も幸吉の作といわれているらしい。2代目金子周助建立と伝えられるという出身地附近の建物の様子を確認する。
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 その「長泥観音堂」だが、ここだと思うのだが、今一つ自信は持てないので、?をつけた。
 まずは、長泥という地区名だが、この辺りは字名が近代的な名称に変更になって消滅している。
 頼りにしたのは、福島交通長泥バス停で、その附近の観音堂を探して見つけた観音堂ということだ。
 次に不安なのが、ここは「史跡 馬頭観音堂」であると案内されるだけであること。案内板があるのだが、その解説には、「長泥観音堂」の呼称が解説されないだけでなく、金子周助氏の名も幸吉氏の名も登場しない。
 手持ち情報では、故郷である下野寺村近く「長泥」地区にある観音堂というヒントしかないので、見つけた観音堂がここしかないという事でしかないという状況。
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 それらしいと思うのは、解説に「先人は御詠歌に心の安らぎを求めた」とある事で、巡礼の風習とかかわるのではないかと思われる表現があることや、「御堂は郷土の仏教文化の発祥となっている」とあること。
 もっと言えば、モルタルで隠れた観音堂の原形は、普通に「観音堂」らしい雰囲気であることも。
 中を覗くと、木像の足元に「○○東第25番『南無大悲観世音菩薩』」の木札が見える事も。
 読めなかった部分だが、次に整理する醴(あまさけ)観音堂の解説から、「信達準坂東」ではないかなと想像する。これと解説文の巡礼の風習と結びつけば、ここが「長泥観音堂」の可能性が高いと思うが、強引かな。
 「南無大悲観世音菩薩」の部分だが、「大悲観音菩薩」を千手観音と解釈すれば矛盾すると考えるのも分かるような気がする。しかし、これは観音様の名を唱えることととらえれば、観世音菩薩の総称との解釈も可能であるとも聞く。
 ならば、アバウトに巡礼の痕跡と見てもよいのではとの勝手な思いも、……。
 「史跡 馬頭観音堂」
 この馬頭観音堂は文治年間(1185)の建立と推定される。正面に木造の馬頭観音堂がある。菩薩は八大明王の一つであって宝冠に馬頭を戴き、忿怒の面相は煩悩を排し、四方の敵を退治すると言われている。
堂続きに籠堂があって、先人は御詠歌に心の安らぎを求めた。堂は永年の風雪に朽ち何度も修復されている。裏には古井戸や供養塔が立ち並んでいる。御堂は郷土の仏教文化の発祥となっている。
 平成20年
 野田町南町会

 ※ ここは、明らかに仏堂なので、表題を「2代目金子周助建立伝神社・仏堂」に変更した。(2014/1/17)
by shingen1948 | 2014-01-15 06:17 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)