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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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2代目金子周助建立伝の神社~羽黒神社にかかわることの誇りから

 信夫山は、古代から神が宿る神聖な山と崇められてきたという。中世には、神仏混合し修験僧修験の場として発展したそうだ。
 その信夫三山の一つである羽黒山と称される一角に、羽黒神社は鎮座し、信夫の里の中心的な信仰的の拠点の一つとなっている。歴史代領主からも崇敬の対象となっていたという。
 それが明治初頭の神仏分離令によって別当寺院と分離し、現在は麓にある黒沼神社の摂社となっているらしい。この事とかかわって仁王門は撤去されたのだろうと思われる。更に、その御神体だった渟中倉太珠敷命の聖観音像は、別当寺を引き継いだとされる真浄院に移されたという。
a0087378_5474010.jpg その明治の神仏分離令によって分断された歴史をつないできた弘化2年(1845)建立の社殿も、昭和51年には焼失してしまった。現在は、新しくコンクリート造で建て替えられている。
 自分が目にする羽黒神社は、この建物だ。(この写真は2007/11撮影のもの)信夫の里在住の方が当然としている信夫の里の原風景のイメージは持っていないということになる。

 福島市史が編纂された当時は、まだこの歴史をつないた社殿が現存していて、信夫の里で、設計図や再建の記録がある本格的な大建築の代表例として紹介されている。そこに棟梁金子周助の名が残る。
 「福島市史」によれば、初代棟梁金子周助が登場するまでに、羽黒神社の建物は炎上再建消滅の盛衰を繰り返すようだ。その中に、堀田氏の修復普請などが見え、歴史代領主からも崇敬の対象となっていたらしいことが伺える。
 初代棟梁金子周助が登場するのは、明和年間に再建された建物の消滅後の文政9年(1826)8月(大吉拝日)建立される建物の「設計図年紀」で、「棟梁名秀○財金子寄吉」の記載があるらしい。しかし、この建物も天保4年3月4日には炎上してしまう。
 それで、弘化2年(1845)10月16日に羽黒神社は再建される(上棟式は17日)。これが市史編纂時点で現存していた建物だ。この棟札にも「棟梁金子周助」の名が残るようだ。これが初代金子周助氏で、その時の介添えが大工源吉。大工小工27名の総力を結集した工事とのことだ。
 この初代金子周助氏は、その完成を見ずに天保9年2月2日に没してしまうのだが、その没後は2代目金子周助(幸吉)が継いで、その3年後の嘉永元年3月に羽黒神社本殿は完成する。7日間盛大な新築御開帳が行われたとのことだ。
 なお、この時の羽黒権現四周の彫刻は、長谷川雲橋父子の作とのこと。
 先に、その初代棟梁金子周助氏建立の成田薬師堂を整理した。引き継いだ2代目金子周助(幸吉)建立とされるものも整理していこうと思うのは、自分も信夫の里の原風景として羽黒神社をイメージしてみたいからだ。
by shingen1948 | 2014-01-13 05:50 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)