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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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西在への道筋~里道⑦~方木田附近散歩⑬

 直接確かめていないが、常光寺の寺伝には、天正年中方木田村に松葉閑居東堂という道場を設けたとあるのだそうだ。半沢氏の「歴史地図」では、東北本線と会津街道の間位に常光寺松葉閑居東堂がプロットされ、「天正18年10月家康、秀次宿陣か」とメモされる。その位置が曖昧であり、メモの語尾に「か」とついていることから、史実としての確からしさの観点からも疑問はある言い伝えということなのだろうと思う。

 現在清明地区にある常光寺は、元々大森にあった寺で、文禄2年(1593)木村伊勢守重次が杉妻村を福島村に改め大森城から福島城に移った時に、常光寺は現在地に移ったとされる。その常光寺が、天正年中(大森城主が伊達實元の時代)に、その道場として本方木田に閑居堂を建てたとされているらしいのだ。
 その「松葉閑居東堂」を、「吉井田ふるさと再発見マップ」では、本方木田村へ向かう里道から西畑に向かう道筋を進んで西畑橋を渡る少し手前の東側にプロットする。
a0087378_6392266.jpg
 これが、そのプロットされた地点附近の様子。
 「方木田物語」では、「閑居東堂」の位置について以下のように記す。
 「場所は、本方木田の西、現在の西畑、前田の附近で荒川とうま川の合流地点の北側である。現在でもこの辺りを松葉と称している。西畑、石田は全部常光寺の除地で、前田の畑からは、花崗岩製の宝球が発見されている。」
 別所には、「この時の方木田の寺領が8字田畑宅地反別8町8反である」ことも記される。

 「この辺りを松葉と称している」というその「松葉」の原風景としての雰囲気については、先に「西在への道筋~里道⑤~方木田附近散歩⑫」で整理した「松葉の狐」の世界とイメージが重なるところかなと思う。
 http://kazenoshin.exblog.jp/19194513/
 「方木田物語」では、その方木田村の「閑居東堂」が福島村に移る経緯を次のように記される。
 文禄2年(1593)木村伊勢守重次が杉妻村を福島村に改め大森城から福島城に移った時、この閑居東堂も福島大学町(1丁目西側)に引移し的場山長安寺と称した。
(中略)
常光寺は、宗門人別寺として寛永16年長安寺と合寺して現在の所に移った。
 大きな視野では、木村伊勢守重次が、文禄2年(1593)杉妻村を福島村に改めて、大森城から福島城に移る時に常光寺も現在地に移ったという事。
 その途中経過として、まずは閑居東堂が的場山長安寺として現在の地に移り、寛永16年に大森の本堂が移動してきて合寺になり、現在の常光寺となるということらしい。

 「天正18年10月家康、秀次宿陣か」とメモされるのは、豊臣秀吉の奥州総仕置きにかかわる言い伝えとのかかわりらしい。
 伊達政宗の所領替え、奥州検地、南部九戸政実征伐等が行われるのに、蒲生氏郷を先陣とした10万の軍勢が8月6日二本松、翌日大森城下に宿営したとする。この時に、豊臣秀次、徳川家康、浅野長吉、石田光成等も下向したとすることにかかわるらしい。
by shingen1948 | 2013-12-28 06:44 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)