大河ドラマ視聴「八重の桜」~第50話「いつの日も花は咲く」
2013年 12月 21日
自分の場合は、勝手な想像の範囲だが、こちらにはその根拠が記される。当方が読み取ったのは以下のような根拠。
八重さんは明治23年(1890)に日本赤十字社の正会員になるが、日本赤十字社の正会員になるのは寄付行為である事とのかかわり。
八重さんが日赤正会員になるのは、襄氏没年の明治23年(1890)4/26で、八重さん45歳の時だが、日赤の情報によると「正社員になる条件は、年に3円以上12円を納める者であること、或いは、一時又は数度に200円以上納める者」とある。
また、八重さんは、明治28年(1895)には終身社員になるようだが、終身社員は、3円を10年以上納めるか、一度に200円以上納めるという情報もある。
八重さんは常々寄付行為をしていることも確認できる。
明治24年(1891)12月1日、襄氏が1889年8月に吉野郡での災害に対し、2円50銭寄付。これに対して八重が奈良県知事より感謝状を受け取る。
この年、同志社ハリス 理化学校に北海道の植物標本23点を寄付し、感謝状を受け取る。
兄覚馬氏が永眠した明治25年 (1892) 5月18日、京都府高等学校増築費3円を寄付し感謝状を受け取る等々。
磐梯山噴火は、八重さんが正社員になる2年前の明治21年(1888)だ。
この時に、赤十字社は、医療救護班を派遣して救護活動を展開している。この救護活動は、平時救護活動の世界的先駆けとされ、当方はまだ確認していないが、五色沼に「平時救護発祥の地」の記念碑が建つという。
これも動機の一つでないのかなと思えるのは、八重さんの遺品には、八重さんの遺品には磐梯山の噴火写真もあるということだ。更には、八重さんの胸に輝く小さな会員章は明治21年(1888)が刻まれているのだとか。
磐梯山噴火という関心事と赤十字社が結びつき、それが常々寄付行為しているという心持と結びついた可能性が想像できるというのが指摘される根拠かな。
八重さんが、赤十字社との直接の行動としてかかわるのは、明治26年(1893)に日本赤十字社京都支部に篤志看護婦会が設立されると同時に入会したことだろうか。ドラマでは、こちらのかかわりを中心に描かれる。
明治27年(1894)日清戦争の折、40人の看護婦の取締役として、広島の陸軍予備病院で4ヶ月間篤志看護婦として従軍する。八重さんは、怪我人の看護だけでなく、看護婦の地位の向上にも努めたとされる。
日本赤十字社終身社員となった1895(明治28)年の11月18日に日清戦争の従軍記章を受け取っている。
社会的にはこちらの側面が認められ、彼女の名誉に結びつく。
この年には、これらの功績が認められ勲七等宝冠章が授与されるのだが、その「これらの功績」= 「日清戦争の折、40人の看護婦の取締役として、広島の陸軍予備病院で4ヶ月間篤志看護婦として従軍した」なのだろう。
前話の「再び戦を学ばず」の視点でみれば、ドラマで描かれた日本赤十字社とのかかわりは、世間の「戦争推進」とつながる行為でもあるのではないかな。「再び戦を学ばず」の心持とつながるとすれば、自らは苦しい時期にも、他者のために寄付行為を行っていることとつながる日本赤十字社とのかかわりの方ではないかなと思えるがどうだろうか。
ドラマの概要については、エキサイト「大河ドラマ 八重の桜」のページから、第50話「いつの日も花は咲く」の粗筋をお借りする。
http://tv.excite.co.jp/detail/nhk_taiga52/nextsynopsis.html
「いつの日も花は咲く」その功績がたたえられ、皇族以外の女性では初となる宝冠章を受章した。このことは新聞にも取り上げられ、二葉(市川実日子)や時尾(貫地谷しほり)は自分のことのように喜ぶ。そんななか、再び日本はロシアとの戦に向け動き出す。戦が起こらない世を願う八重の胸中は複雑だった。そして、晴れない気持ちを抱いたまま帰郷した会津で、八重は頼母(西田敏行)と久しぶりの再会をする。頼母に励まされ元気を取り戻した八重は、また新たな道に向かって歩み続けていくのだった。
明治27年、八重(綾瀬はるか)は篤志従軍看護婦として広島陸軍予備病院で日清戦争の負傷兵たちを看護していた。院内ではコレラや赤痢などが発生し危険な状況だったが、八重は感染にひるむことなく勇敢に看護に従事、若い看護婦たちを見事に統率。その功績が讃えられ皇族以外の女性では初となる宝冠章を叙勲した。しかし、戦争がきっかけとなった叙勲を八重は素直に喜ぶことができずにいた。そして、晴れない気持ちを抱いたまま帰郷した会津で八重は、思いがけない人物と再会する。(60分拡大版)