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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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西在への道筋~里道③~方木田附近散歩⑩

 里道は、小字氷屋附近で会津街道と交差する。
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 この何社かは分からないが、この社の建つ道筋を境にその南側が小字氷屋のようだ。この道筋は、小字田仲と小字氷屋の小字界の道筋らしい。実は、散歩の途中ではこの社と田仲稲荷を間違えていた。
 その田仲稲荷のある道筋は、この道筋の一本北側の道筋のようだったのだ。今にして思えば、道祖神神社も小字田仲の領分なので、そこにつながる会津街道から分岐する道筋が小字田仲の道筋であろうことは当然のことで、地元の方なら常識の範囲なのだろうな。
 その小字氷屋付近で気になっていることは、方木田村、郷野目村、太平寺村共立小学校仮教場。その具体的な位置情報は「信達ニ郡村誌」に高野菊次郎宅とあるわけだが、今のところ小字氷屋内と整理しておく。

 里道は、ここから少し東進して現国道115号線バイパスを横切る。
 この東側にある本方木田古墳は先に整理したことがあるのだが、その時点で本方木田集落の広がりの中で捉えていない事が分かる。現国道115号線バイパスで見え方も分断されていたようだ。
 地元の俗称は、この本方木田古墳は「高らん場」あるいは、「オンジャ古墳」というらしい。俗称「高らん場」は、「高」+「らん場」で、「らん場=墓」だろうと推測する。そのヒントは、「方木田物語」の本方木田集落の墓にかかわる記述。
 要約すると、以下のような経緯らしい。
 「高らん場」は元和2年(1616)以来部落民の祖先祭祀の墓地だった。それが、明治10年に使用を停止される。
 使用停止の時点で、祖先祭祀の証としての墓石は、宗家19基、隣の家17基、東の家19基、下の家13基、前の家10基の計78基があったということで、使用停止に納得ができなかったらしい。
 それで、明治38年に墓地再使用願いを提出したところ、明治39年に再使用許可がおりたのだとか。
 その途中経過に「この間、新らん場に葬られた人もあったが、許可後高らん場」に移葬されたものもある」とある。「新らん場」は、新しい「らん場」を指すらしいと推測される。「高らん場」は、高い地にある墓地の意と推測する。
 なお、「新らん場」は、道祖神神社近くの「会津街道」沿い墓地を指すらしい。
 今のところ「オンジャ古墳」の意は推測できていない。
by shingen1948 | 2013-12-19 18:42 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)