地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大河ドラマ視聴「八重の桜」~第49話「再び戦を学ばず」

 今回の大河は、新しい日本を目指すことにおける正義の対立軸にある敗軍となった会津藩を中心に描かれてきた。残り少なくなった今話のテーマが「二度と再び戦うことを学ばない」であることがいい。
 敗者の歴史は語られてこなかったとのことだが、会津で育った者にとっては断片的ではあるが、その敗者の歴史の視点は持っていた。気になっていのは語られないことではなく、資料を確認していくと、賊軍ではないというこだわりが最終的にファシズムに利用された歴史と結びつく事だった。
 正史の歴史観が300年の平和持続の歴史にかなわなかったが、敗軍の歴史観でも同じようなのだ。それなら、ファシズムに利用された歴史観を反省していく捉え方があってもよさそうにずっと思っていたところがあったのだ。
 それで、覚馬氏を登場させた今回の大河では、「二度と再び戦うことを学ばない」で結ぼうとしていることがいいなと思うのだ。しかも、会津の歴史に詳しいとされる方をその時代考証に据えたままだ。

 覚馬氏だが、新島襄の死後同志社臨時総長を務めている。その同志社卒業式訓示の実際は、「弱を助け強を挫き、貧を救ひ富を抑ゆるものは誰れぞ、諸子乞う吾が言を常に心に服膺して忘るゝ勿れ」だとか。その覚馬も、明治25年(1892年)12月28日にこの世を去る。享年64歳。

 松平容保公は、賊軍ではないという証である孝明天皇から下賜された「宸翰」を小さな竹筒に入れて首にかけ、死ぬまで手放さなかったのだとか。その容保公も明治26年(1893年)12月5日にこの世を去る。享年59歳。
 その思いは、明治44年(1911年)「京都守護職始末(山川浩)」で公表される。大河確認で、その「京都守護職始末」の昭和5年6月20日発行版が、国立国会図書館デジタル化資料で目にする事ができることが分かる。
 そのこだわりが、以下の図版になっていることからも感じる事ができる。
 孝明天皇御宸翰(ごしんかん)玻璃(はり)版
 孝明天皇御宸翰写真版
 孝明天皇御製写真版
 孝明天皇恩賜の太刀写真版
 会津藩主松平容保公真影玻璃(はり)版
 会津藩主松平容保公真影写真版
 会津藩松平家家訓写真版
 著者男爵山川浩肖像写真版
 元治6年京都守護職時代の京都古地図玻璃(はり)版
 ※ 玻璃版=コロタイプ=写真製版の一つ、ガラスセルロイドなどを版木とする平版で、直接刷り。精巧な仕上がりを要する名画の複製、記念写真アルバムなどに用いる。(デジタル大辞泉)

 更に、国立国会図書館デジタル化資料で確認できたのが、山川健次郎監修「会津戊辰戦争史(会津戊辰戦史編纂会)」の昭和8年版、「会津戊辰戦争(平石弁蔵)」の大正6年版。
 今回の大河に関わって、他に「山本覚馬(青山霞村)」【昭和3年同志社】・「東北遊日記(吉田松陰他)」【 慶応4河内屋吉兵衛】も確認できた。
 なお、各種証言を網羅する「会津戊辰戦争(平石弁蔵)」の最新版は県立図書館で読む事ができた。この最新版が、ファシズムに利用された歴史と結びつく資料ともなるように感じる。

 ドラマの概要については、エキサイト「大河ドラマ 八重の桜」のページから、第49話「再び戦を学ばず」の粗筋をお借りする。
 http://tv.excite.co.jp/detail/nhk_taiga52/story_49.html
 「再び戦を学ばず」
 明治23年に教育勅語が発表されると、覚馬(西島秀俊)は天皇への忠義を課す一節に懸念を抱いていた。そんな覚馬のもとに東京から健次郎(勝地涼)が訪ねてきた。兄・浩(玉山鉄二)に代わって幕末の戦記を仕上げるために、京都でどのように薩長と戦っていたかを詳しく取材するためだ。しかし、覚馬が薩長にも勤王の志はあったと語ったことに、健次郎も八重(綾瀬はるか)も激しく反論する。その後、覚馬は同志社の卒業生たちに不戦の精神を説くと、病に倒れ息を引き取る。

by shingen1948 | 2013-12-14 09:41 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)