西在への道筋~方木田附近散歩
2013年 11月 26日
この一中に保存される道標は、安政2年(1895)に建てられた道標で、「左江戸海道」、「右山王道」と刻まれる。この道標が、ここに移動される前は、信夫橋沿いの山口そば屋さんの西端附近に建っていたらしい。可能性としては、別の地から移動されてここにあったとも考えられるが、とりあえずここがその道標が建てられた位置だと想像することにする。
この山口そば屋さんができるのは、鉄道が開設された明治20年(1887)以降で、柳太郎氏の代に丸太を支柱として床を張り、信夫橋のたもとで茶店を営んだのが最初といわれているらしいとのことだ。
この道筋の考察資料では、明治20年(1887)を境にする事が多いのは、この道筋の消滅は、その頃に始まる鉄道の敷設工事とかかわるかららしい。
ここでは、須川を架橋で渡るようにするために、その高さ確保のための盛土がなされ、そのために道筋が遮断されることになったという事情らしい。
このことを頭に置いて、道標が建っていた頃の道筋を想像すれば、位置的には山口そば屋さんの西端附近に、須川(荒川)から南へ向かう道筋の分岐点があって、そこで左江戸海道、右山王道が案内されるということかな。
ここで案内される「右山王道」は、いわゆる鳥渡山王様に通じることを意味し、当時としては、土湯温泉や会津に至るより、間近の地点にある鳥渡の日吉神社が有名な存在であったので、これを目標に道標に刻まれたものとのことだ。
この道標の続きの道標が「道祖神社」にあるので、道筋は、ここから「道祖神社」に向かっていたはず。
南町附近は、方木田の高屋まで南西の方向に道筋が伸びていて、その部落内は西に吉の内まで向かって「道祖神社」へ続くということなので、おおよそ水路沿いの道筋に近いイメージだと思っている。
その道筋が、「道祖神社」の手前で左手に大森向かう道筋と、右手在郷道に向かう道筋とに分かれるようになるようだ。
確かに側面の一部が磨り減ってへこんでますね。
信夫山の板碑、大塚山の石棺の蓋なども小川の橋に活用されていたらしいですよね。不要になった石造りのものを、リサイクルして使うという知恵とも言えそうですね。