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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大河ドラマ視聴「八重の桜」~ 弟42話「襄と行く会津」

 八重さんが、戊辰戦争後に、初めて会津郷里に戻るのは、明治15(1882)年との事だ。ドラマでは、その時代背景として、明治15年(1882年)4月6日に、自由党総裁の板垣退助が岐阜の中教院岐阜の中教院で暴漢に襲われる事件を描くが、福島の地では、県令三島 通庸氏の動向の方が納得しやすいかな。
 国会図書館「近代日本人の肖像」のページでは、氏のその時代の動向を以下のように記す。
 明治4年(1871)東京府に出仕、酒田・鶴岡県令を経て9年から15年まで山形県令。15年1月から福島県令を兼任(同年7月より福島県令専任)。翌年10月より栃木県令を兼ねた。17年内務省土木局長に転じ、翌年警視総監に就任。積極的に地域開発を進める「土木県令」として知られる一方、強権的な手法で自由民権運動と対立、福島事件や加波山事件を誘発した。
 氏は、1月に山形県令と福島県令の兼務となり、その7月に福島県令専任になった頃、この辺りと八重さん達の動向が重なるのだろう。

 ドラマでは、新島襄氏の台詞で、会津に中学校ができる頃らしきことをにおわせる。ここは母校でもあるので、これを機会に確認すれば、「明治15年、旧会津藩士らは資金を出し合い、藩校日新館の流れを汲む私立日新館を設立」とある。
 ここで、ちょっと気になったのが、自由民権運動と近代化にかかわる動きだ。
 というのは、この前に福島・若松・三春・平に中学校を開設しているらしいが、これが県議会の反対で、11ヶ月で廃校になってしまっているという経緯があるようなのだ。
 福島の地では、県令三島 通庸氏が建設や道路開設等の近代化事業を、強引な道路用地収用、重税や労役の義務付けるという手法で推進した事への反発が強い。それで、この時代は自由民権運動家側の視点で語られることが多い。それで、これに対峙する動きや都合の悪い動きは封じ込められている可能性もあると思うのだ。
 これもその一例で、「議会の反対」=「自由民権家の反対」と読み替えてもいいのかな。

 中学校のその後だが、明治17年に再び福島・若松・平に県立中学校が再び開校されるが、今度は明治19年の中学校令の発布で、1県1中学校の方針に伴い、福島中学校(安積高)以外廃校となるようだ。
 それで、再び私立校設立を目指して、明治21年に現会津高校につながる私立会津中学が開設されるという経緯らしい。
 八重さんたちが戊辰戦争後に初めて会津郷里に戻った時期は、三島通庸氏でさえ、会津藩士の困窮を訴えているような時代で、会津の荒れのどん底の時代だったのだろうと想像する。これに追い打ちをかける会津磐梯山の噴火は、明治21年。

 ドラマの概要については、エキサイト「大河ドラマ 八重の桜」のページから、弟42話「襄と行く会津」の粗筋をお借りする。
 http://tv.excite.co.jp/detail/nhk_taiga52/nextsynopsis.html
 「襄と行く会津」
 新婚のみね(三根梓)と伊勢(黄川田将也)を連れ立って、襄(オダギリジョー)は八重(綾瀬はるか)とともに、会津への伝道旅行に出かけることにした。みねを連れて行くことにしたのは、八重の中に、生き別れたうら(長谷川京子)に再会出来るかもしれないという淡い期待があったからだ。そして、ついに踏みしめる15年ぶりの故郷の土。山本家が建っていた場所は長屋に変わっていたが、かすかに角場の遺構を見つけて思い出に浸る八重とみね。するとそこへ、下女だったお吉(山野海)が現れ、うらの消息について重い口を開く。
 ドラマでは、八重さんとみねさんは、その情報を頼りにうらさんのもとを訪れ、再会を果たすように描く。
by shingen1948 | 2013-10-25 06:53 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)