地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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成田薬師堂②~吉倉散歩~福島の建築43

 現在は焼失してしまったが、「福島市史」が編纂された当時、信夫の里で、設計図や再建の記録がある本格的な大建築の代表例が、信夫山の羽黒神社だったようだ。初代棟梁金子周助は、そこに名を残しているということのようだ。
 この神社自体は、寛永(寛永20年6月朔日)と寛文(寛文3年12月21日)の二度に渡って建立され、その後、堀田氏が、古物をそのまま転用した修復普請をするらしい。
 ここから初代棟梁金子周助が登場するまでに、炎上再建消滅の盛衰を繰り返すようだ。
 まず、建立時期不明の神社が宝暦12年正月に炎上する。その後、明和年間にも神社が再建されるようだが、その建物が消滅した後に、初代棟梁金子周助氏の名が登場する。
 文政9年(1826)8月(大吉拝日)建立される建物の棟梁名秀○財金子寄吉が、「設計図年紀」に記載されるらしい。先に整理したように、初代棟梁金子周助の諱(いみな)は寄吉だ。

 しかし、この建物は天保4年3月4日に炎上してしまい、弘化2年(1845)10月16日に再建される(上棟式は17日)。市史が編纂された時点では現存していた建物の棟札に、初代金子周助氏が、棟梁金子周助の名で再登場するようだ。
 その時の介添えが大工源吉で、大工小工27名の総力を結集した工事とのことだ。ただ、先に整理したように、初代金子周助氏は、その完成を見ずに天保9年2月2日に没してしまう。その没後は、その2代目金子周助(幸吉)が継ぎ、羽黒神社本殿は、その3年後の嘉永元年3月に完成する。その時、7日間盛大な新築御開帳が行われたとのことだ。なお、この時の羽黒権現四周の彫刻は、長谷川雲橋父子の作とのこと。
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 この羽黒神社という初代棟梁金子周助氏の代表的な仕事も、近年焼失してしまっている。だから、初代棟梁金子周助氏の仕事として残っているのは、この成田薬師堂しかないのだと思う。この薬師堂の創建の年代と没年から逆算を照らし合わせると、47歳の作。(文政6年(1823)成川薬師堂造営で、初代棟梁金子周助没年天保9年(1838)2月2日で、この時62歳)
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 「続道端の文化財」に紹介される「かご彫り」という精巧な彫刻は、今回確認できていないのだが、その位置が、お堂正面鰐口の上の梁の部分とのことで、撮ってきた写真でその辺りを確認すると、確かに手の込んだ彫刻が施されているというのは感じる。
 なお、施された「かご彫り」は、かごの目からノミを入れて中にニワトリを彫り、左右に臥した人物がニワトリの鳴き声を聞いているところが表現されているとのこと。周助氏は、この彫刻を手掛ける時には時には、家族も遠ざけ、一室に閉じこもり、完成したと伝えられているのだとか。
 この辺りが近いかなと思うが、どうだろうか。

 素人目には、この御堂、近隣のこういったお堂に比べて高床でしっかりしているようにも見える。
by shingen1948 | 2013-10-16 13:25 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)