地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28

吉倉八幡社~吉倉散歩

a0087378_6322993.jpg この吉倉八幡社で気になっていたのは、吉倉村が、それ程大きな村でもなかったはずだし、付近に権力者の影が見えるわけでもない。それにも関わらず、周りが凝った立派な彫刻で施されている事だった。
 ただ、福島市の文化財にもなれていないようなので、当方の素人目のせいであろうということで納得していた。
 この彫刻、半沢氏の歴史地図のメモには、「中国の故事にならった彫刻」と紹介される。

 今回吉倉八幡社に来てみたら、新しい案内板が建っていた。宮司と氏子によって、平成21年8月2日に建てられたと記される。
 その案内板には、この彫刻にかかわって注目すべき紹介があった。
 文久3年(1863)8月不幸にして焼却した。同年11月別当福島普門寺に依り再建を勧化し、信夫、伊達、安達、安積の各地に呼びかけ予想以上の勧化金が集まり、神社本殿を慶応3年(1867)有名な宮大工金子周助氏(成川村出身)宮大工金子幸吉氏により荘厳華麗な社殿が落慶した。
 本殿三面の外壁に中国故事にならい、司馬光(人の命の尊さ)、猛宗(親孝行)、張良(長老を敬い学を得る)の彫刻を、袖戸には龍の透かし彫りが刻み込まれている。
 その後、再度の修復を重ね、権現造りの社殿が現存する。
 まずは、「有名な宮大工金子周助氏(成川村出身)宮大工金子幸吉氏により荘厳華麗な社殿が落慶した」の部分。
 前回、半沢氏の歴史地図メモに、成田村棟梁金子周助生家と墓が案内されることを記したのは、何となくかかわりが気になったが、半沢氏の歴史地図メモにはその関連が紹介されていなかった。それが、この案内板では紹介されているのは、関連資料が見つかったという事か、推定という事なのかは分からない。
 再度確認しておけば、成田村棟梁金子周助氏について、半沢氏は御山羽黒権現を建てた棟梁として着目しているようで、他に、長泥観音、小針地蔵堂、あまさけ観音堂、下村奥玉明神社等も造営された方とのことだ。なお、近くの成田仲ノ内薬師堂も、この方の造営なのだとか。

 次に気になったのが、「別当福島普門寺に依り再建を勧化し、信夫、伊達、安達、安積の各地に呼びかけ予想以上の勧化金が集まり」の部分。
 先に、「福島普門寺」にかかわって、「大森城⑥」で整理している。
 http://kazenoshin.exblog.jp/13900706/
 大森城跡に観音堂があるのだが、その右脇にあった寺だと思われる。木村氏によって、城が杉妻に移動されたことに伴って移動したと推定しているが、どこに移動されたかは今のところは分からない。ただ、この吉倉八幡社が再建されたのが、慶応3年(1867)で、その資金集めが文久3年(1863)11月ということから、杉妻のどこかに移動されてからの話であろうと思われる。
 この地に何故八幡社がという違和感は、これで消えるということでもある。

 ※ 昨日整理の「調地田の道標」だが、半沢氏の歴史地図に、以下のメモがあった。
 調地田の道標
 阿弥陀
 右つち湯、左大もり、
 寛延3年(1750)9月、関宿領成田村の名主金子太左衛門他建立
 どうでもいいことだが、成田村棟梁が金子さんだったが、名主さんも金子さんのようだ。昨日の記事に、本日(10/10)付加する。
by shingen1948 | 2013-10-10 06:30 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)