地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大河ドラマ視聴「八重の桜」~ 第37話 「過激な転校生」②

 「会津戊辰戦争」の新版は、「会津の処分」の項に、「容保二帝の殊恩に浴す」と「英照皇太后の御仁慈と松平家の光栄」が加わる。「会津の処分」の評価にかかわって、朝敵ではないとすることへの拘りだ。
 「二帝の殊恩」の一つは、孝明天皇とのかかわりであるが、もう一つが明治天皇とのかかわりで、こちらは便法のようにも見える。
 責めの死1等を減じたこととその理由のようだ。その理由で、先帝の信任殊遇(しゅぐう)を知らしめたことと、そこからその責めを御一身の不徳に帰したこと。そして、反逆の行動は容保公の意ではなく、他の首謀者であるとの論旨を下した事とする。

 「過激な転校生」の一人で、八重さんを鵺と評した徳富猪一郎(蘇峰)氏の白虎隊論が紹介されるのは、次の「英照皇太后の御仁慈と松平家の光栄」の中での事。
 この項の中心は、山川氏の会津会報に「明治26年、容保公の病気の時に、英照皇太后が、侍医を召し給い、供御(くご)の牛乳と上意があった」と伝えたことをもとにした評価だが、ここに、「徳富蘇峰の片言寸語」として、以下が挿入される。
 昨年4月徳富蘇峰氏自家の国民紙上に述べて曰く
 頃日(けいじつ)男爵山川健次郎博士より「会津白虎隊19士傳」を寄せ来る。この書は宗川松里君の原著を博士が補修したるもの。予は山川博士が、老来尚ほ白虎隊に喧々(けんけん)たるの志を諒(りょう)とするものだ。
 明治2.3年予が6.7歳の頃、肥薩の国境なる片田舎にあるや 会津肥後守(ひごのかみ)に上げたきものは白木の三宝に九寸五分の里謡(りよう)が、屢(しばしば)耳に入ったことを、今尚ほ記憶している。如何に会津が朝敵てふ評判を取ったかが、此れにて推察せらるる。
 併し勤皇の一事に於いては、史家の公平な眼孔から見れば、薩長も、会桑も、異同は無い。
 特に会津は、一藩を挙げて献身的に朝廷及び幕府のために奉仕した。そのことは孝明天皇の尤も(もっとも)御嘉賞(ごかしょう)あらせられたる所にして、天皇の松平肥後守容保に賜はりたる宸幹(しんかん)を拝見すれば、何人も之を否定することは能(あた)はぬであろう。
 会津は保科正之以来、勤皇の家柄だ。正之は山崎闇斎(やまざきかんさい)の学統を承(う)けたる一人にして、朝廷第一幕府第ニはその伝家(でんか)の建前であった。而(しか)してその戊辰の際に於いて、方向を誤りたるとはいへ、其の決して朝廷に弓を挽きたるものでなきことは弁明する丈野暮だ。
 会津の籠城は、会津一藩にとりては、大損失であった。されど、日本帝国の士気に取りては、寧ろ其の大損失をもて、償ふに餘ありと云わねばならぬ。其の中でも白虎隊の事は尤も壮烈にして、真に鬼神を泣かしむに足る。伊太利首相ムッソリーニ氏が、建碑(けんぴ)の擧(きょ)ありしと云うも寧ろ当然の事だ云々。
 と寸鐡(すんてつ)能(よ)く吾人の肺腑(はいふ)を貫く。之を著者の常に敬服するところなり。
 徳富猪一郎(蘇峰)氏は、昭和32年、94才まで達者で、転々とした生き様を示したようだが、その後半の姿勢かな。
by shingen1948 | 2013-09-22 07:49 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)