地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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地域展「ふくしま再生と文化財」をみて

 「発掘された日本列島2013」展に出かけた。
 その関連地域展「ふくしま再生と文化財」が、隣の福島県歴史資料館で開催が案内されている。縄文時代の津波関係資料、製塩遺跡関係の古記録、古くからの伝統工芸品などが展示されるとのことだった。
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 興味深かったのが「縄文時代の津波と高台移転」についてかな。
 福島県太平洋沿岸部から出土している縄文土器の展示と縄文時代の貝塚の分布から、当時の人々と津波の関係について興味深い考察がなされていた。
 後でじっくり考えてみたい時には、メモ代わりにデジカメで撮影しておくのが習性だが、こちらの展示は、常に撮影禁止で、その手法が使えない。ただ、「福島県史料情報(2012年/33号)」の「災害の記憶を風化させない(本間宏氏)」に、同趣旨の思いがつづられる。その以下の部分と、展示部分が符合する。
 http://www.history-archives.fks.ed.jp/con7/shiryo-33.html



 今回の大津波では、高台にある縄文時代の貝塚の多くが津波被害を免れた。これを「縄文人の知恵」と見る向きもあるが、最近の研究で、縄文後期加曽利B3式期の遺跡が、三陸沿岸部において皆無であることが判明している。これは、この時期の津波によって消失したものと思われ、大量の流木とともに出土した新地町双子遺跡の縄文後期中頃の丸木舟も、このときの津波で打ち上げられたものと想定されている(相原淳一「縄文・弥生時代における津波と社会・文化変動」『日本考古学協会第七八回総会研究発表要旨』二〇一二)。縄文後期後半以降、新地町の縄文人は高台移転を進め、新地貝塚・三貫地貝塚を残している。この二つの貝塚は、今回の津波被害を被っていない。同様に、ほぼ同年代の岩手県大船渡市大洞貝塚・下船渡貝塚なども冠水を免れている。
 しかし、人間の記憶は風化するものである。七二一年(養老五年)に成立した「常陸国風土記」では、手の長い巨人が貝を食べて捨てた場所として水戸市大串貝塚を記録している。これと同じ伝承が、新地町の手長明神社にも伝えられている。海から数キロメートルも離れたところに貝殻が捨てられている意味を、奈良時代以降の人間は理解できなかったのである。
 最初の展示物に、「大量の流木とともに出土した新地町双子遺跡の縄文後期中頃の丸木舟も、このときの津波で打ち上げられたものと想定されている」とあるその丸木舟片が記憶にあり、ゆっくり眺めて見たかったのが、沿岸部の生業に掲げられた地図。その全体図の中で、それらの解説を確認したかった。
 展示物は、マホロンの「新地町双子遺跡」で確認する。
 http://www.mahoron.fks.ed.jp/serch/futago.htm
 新地町の貝塚については、「新地町図書館のページ」で確認する。
 http://library.shinchi-town.jp/kyoudo/kaiduka.html
 巨人伝説は、その中の「新地貝塚<新地貝塚附手長明神社跡>」とのことで、「縄文の風景」のページで確認する。
 http://www.ne.jp/asahi/landscape/jomon/huukei.fol/sinchi/sinchi.html
by shingen1948 | 2013-09-16 16:21 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)