阿弥陀寺大仏(蘆舎那仏)の旧地
2013年 09月 15日
http://kazenoshin.exblog.jp/18440834/
「会津戊辰戦争」としては、白虎隊士中二番隊の帰城経路を示すこの図に、阿弥陀寺大仏(蘆舎那仏)の旧地情報が含まれている事に気がついた。
ここに、「今ノ七日町阿弥陀寺ノ大仏ハ此處ニアリシ正宗寺ノ大仏ナリシ」と明記される。
この図の「弁天堂」が、現厳島神社だ。
その鳥居の位置に、「仁王門」があり、その左手やや西に、阿弥陀寺大仏(蘆舎那仏)が西向きに鎮座していたということらしい。
弁才天の信仰について確認すれば、「弁才天は、日本各地の水神や、記紀神話の代表的な海上神である市杵嶋姫命(宗像三女神)と神仏習合して、神社の祭神として祀られることが多い」とのことで、水に深い関係のある場所に祀られるという。
ここも猪苗代湖から会津地方へ水を引く為に掘られた「戸ノ口堰洞穴」脇である。
元和年間から元禄年間まで工事が行われ、天保3年から3年間は会津藩士である佐藤豊助が中心となり飯盛山の中腹からトンネルを掘り進んだとのこと。これで藩田2500ヘクタールの灌漑が可能になり、会津藩にとって大きな恩恵となったとのことだ。
「戸ノ口堰洞穴」。この厳島神社を確認すると、「弁天様と親しまれ、飯盛山の別名弁天山の由来はこの神社にあります。永徳年間(1381〜1384)に建立され、主神は市杵島姫命。明治になり、厳島神社と改められました」とある。古くから弁才天を祀っていた神社では、明治以降、市杵島姫神や宗像三女神を祀っている神社も多いとのことで、矛盾しない。
今から約350年前元和年間、猪苗代湖の水を会津地方に引くため、郷士八田氏が起工し、元禄年間まで工事が続けられ、後天保3年会津藩士佐藤豊助が藩命により飯盛山の山腹約150mを人工的に穴をあけ水田2500haの藩田に供し、使役人夫5万5千人と約3ケ年の歳月を費やして遂に完成した。
白虎隊士中二番隊は戸ノ口原に布陣している味方軍応援のため派遣されたが、戦に利あらず、お城の安否を確かめようと帰城の途中隊士20名が通過した洞穴である。
弁天様と仁王門や阿弥陀寺大仏(蘆舎那仏)とのかかわりだが、「飯盛家と飯盛山正宗寺」に、以下の解説をみる。
「もともと飯盛山正宗寺は、歴代の領主より宗像神社(現厳島神社)の別当として、飯盛山霊域を拝領し、神仏混合によって守護し続けてきたものである」とのことだ。
この神仏混合の弁天様の原風景から、戊辰戦争の西軍の略奪によって大仏が消え、明治初年の明治政府の神仏分離令によって信仰の原形が消え、更に、白虎隊の観光地化によって信仰そのものが変質していったという事でもあるようだ。