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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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戸の口原古戦場に立ち寄る④

 立ち寄った戸の口原古戦場と白虎士中二番隊とのかかわりを確認する。
 石田氏の情報によれば、十六橋を突破した西軍が陣を敷くのが会津レクリェーション公園内の小高い丘。
 白虎士中二番隊は、ここからの砲撃の音を船石茶屋あたりで聞いたということなのだろう。その茶屋で、銃に弾丸を込め、携帯品を預け身軽になって戦闘態勢を整え、滝沢峠を越えて、強清水へ向かう。そこから、約一丁半進んで戸ノ口原手前の小高い丘に胸壁を築き、敵を迎撃したのだとか。
a0087378_661714.jpg
 「会津戊辰戦争」の図で、敢死隊の陣の位置をプロットするのは、黄色い○辺りかな。ここは、地形的にも戸ノ口原の低地を見渡せるこの菰槌山(こもつちやま)の地名の小高い丘付近に塹壕を掘って対峙していたらしい。
 白虎士中二番隊が胸壁を築いたのはその右手で、藪に覆われ自然に還りつつあるが、戊辰の役の際に築いた3重の塹壕がこの近くにあるという情報。
 今回の立ち寄りとこれらの情報、それに石田氏明夫氏の「会津の歴史」ページの戸ノ口原白虎隊野営地、白虎隊最前線の位置情報を加えるとこんな感じの配置かな。
 http://www17.ocn.ne.jp/~aizua/tonokuchiikouzu102.pdf
 次の立ち寄りの候補としては、強清水と今回立ち寄った古戦場跡の間辺り。目印としては、「会津藩士二十二人の墓」周辺と小高い丘かな。
 この辺りは、鷹狩りの場でもあり、藩士の軍事訓練の場でもあったのだとか。
 ここが、小さい案内板の「因みに白虎隊士中2番隊士は、此処より2㎞も西の赤井谷地周辺で戦っている。」位置であり、先に整理した会津藩軍が西軍に押されて後退して、結果的に白虎隊が置いてけぼりをくらい、  「腹背皆敵なるを見て大いに驚き、且つ戦い、且つ退き赤井新田に至」るという状況になる辺りらしい。
 そして、ここでの戦いの戦死者の遺体を、近くの集落の人達が集め、手厚く葬り、戦死六人墓、戦死十六人墓を建て供養したのが、「会津藩士二十二人の墓」という関係性かな。

 白虎士中二番隊の退路だが、敵の目から逃れるため旧二本松街道を通らず、この赤井谷地を抜けて鶴ヶ城に向かうという情報は、「且つ退き赤井新田に至」るという情報と重なるが、目指すとすれば、穴切あたりなのかな。
by shingen1948 | 2013-09-13 06:11 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)