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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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戸の口原古戦場に立ち寄る③~戊辰戦争戦死者の墓群

 国道49号寄りに、「戊辰戦争戦死者の墓群」の一角がある。
 「戊辰戦死者之墓」として、戸ノ口原で戦死された会津藩士を弔う墓標と、笹山や戸ノ口原で戦死されたそれぞれの方々の墓で構成される。
 戸ノ口原に点在していた墓を、この一画に移したものと思われる。
 戊辰戦争戦死者の墓群a0087378_554439.jpg
 戊辰戦争は慶応4年 (1868)1月の鳥羽・伏見の戦いに端を発し 会津藩は薩長を中心とする西軍と同年8月以降 激戦を展開した。
 この地は、その際8月22日から23日早朝にかけて、白虎二番士中隊が西軍を迎え撃った場所で 多くの戦死者が出たとされている。
 白虎隊は、この地を抵抗を重ねながら敗走し、飯盛山の悲劇へと進んでいった。
 会津藩は 1ヶ月後の9月22日に若松城を開き降伏したが、この一帯には戊辰戦争にかかわる墓碑や悲話が今も残されている。
 平成3年12月   会津若松市教育委員会
 「会津戊辰戦争」によると、戸ノ口原の戦いでは、その要所を遊撃隊70~80名で守り、敢死隊と奇勝隊各70~80名で戸ノ口原を保ち、他に、第2奇勝隊約120~130人と砲兵を加えて西軍に備えていた。郡奉行古川幸之進は、日橋川の橋梁を焼いて、桑藩の兵と大寺方面を固守していた。
 しかし、戸ノ口原を目ざす「西軍益々増加し、その戦線北は日橋川の左岸より南は赤井村方面に亘(わた)り」、東軍益々苦境に陥って、「白虎半隊頭佐藤駒之進、敢死隊総務辰野勇奮戦して之に死す」。
 「笹山方面では、遊撃隊長小池繁次郎、同組頭安藤物集馬(もづめ)、鈴木文次郎始めとして続々これに斃(たお)る」
 「戸ノ口原に於いては、長坂悌五郎、敢死隊組頭小原信之助、同大沼市太夫、及び、猪苗代隊村松常盤之に死し、死傷刻々相次ぐ」。
 その笹山、戸ノ口原で斃れた方々を弔う墓群なのだろうと思う。

 「白虎隊は、この地を抵抗を重ねながら敗走」するのは確かだが、この文脈で、白虎隊に焦点を当てられると、状況が分かりにくい。ここでは、白虎隊は守備隊の一隊として加わっているだけだ。東軍全体に視点を当てた見え方が分かりやすいのだと思う。
 「会津戊辰戦争」で白虎隊の状況を確認すると、この戸ノ口原を守備する隊が、益々増加した西軍に後方に押されていて、孤立していた状況になっているのに気づかずにいたらしい。それで、「腹背皆敵なるを見て大いに驚き、且つ戦い、且つ退き赤井新田に至」るという状況になるらしい。
 それが、先の小さな案内板の「因みに白虎隊士中2番隊士は、此処より2㎞も西の赤井谷地周辺で戦っている。」という位置なのではないかと想像する。
by shingen1948 | 2013-09-12 05:58 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)