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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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戸の口原古戦場に立ち寄る

 会津には毎年出掛けるのだが、風景に誘われて、突然脇道にそれてしまう事があるのは、習性のようなもの。それが、今年は出掛ける前にそうならないように釘を刺された。
 会津地方の豪雨で地盤が緩んでいるという情報の影響かとも思うが、その背景には、昨年の迷い込みも影響している。
 土湯峠を越えで会津に向かう途中の話。
 猪苗代を過ぎて、突然強清水で蕎麦を食おうということになって、適当な道筋を49号線に抜けようとしたのだ。本当は、おおよその方向を頼りにハンドルをきっただけだけだったのだ。簡単に抜けられると思ったのに、だんだん道筋が細くなってきたのだ。ちょっと不安を口走ったのがいけなかった。
 高速道路をくぐって、牧場の案内がある脇を通るあたりからは、どうにかなると思えるようになったのだが、家人のこの時の評判がよくないのだ。
 後で確かめると、この道筋、115号線から天鏡閣を経由して49号線に抜ける道筋で、恐らく母成峠を突破した西軍が十六橋に向かう道筋と重なるのだろうと思える道筋。その事と天鏡閣で食べたアイスクリームがおいしくて不満が解消した事を想起させるて納得させようとするが、根深い不満は解消されないらしい。

 そういういうわけで、今年は、猪苗代から素直に49号線に抜けて会津に向かった。
 案内される古戦場跡にちょっと立ち寄る程度ならいいだろうと、十六橋から続く道筋に入る。細い砂利道でちょっと不満気な気配を感じる頃には、到着。
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 戸 ノ 口 原 古 戦 場 跡
 慶応4年 (1868) 8月22日、母成峠の藩境を突破した西軍は、怒涛のごとく猪苗代湖畔の要衝「戸ノ口十六橋」に殺到しこれを占拠した。
また、別働隊は湖を渡り笹山への襲撃に成功し、この両面作戦で挟み撃ちを受けた会津藩守備隊は苦戦を強いられた。
急きょ、松平容保公警護の白虎隊士中二番隊が滝沢本陣より派遣されたが、会津藩守備隊に対し、数倍の兵力と優れた性能の武器を持つ西軍は優勢に戦いをすすめた。
 戸ノ口原で展開された戦闘では孤立無援となり、散り果てた藩士も多く、派遣された白虎隊士中二番隊は藩主に復命するため後退し、そのうち20名は弁天洞窟をくぐり、飯盛山へたどりつくのであった。
 平成18年10月   会津若松市
 「別働隊は湖を渡り、笹山への襲撃に成功し」については、「会津戊辰戦争」では疑問ありとし、「山川談の言によれば、当時該湖岸には極めて小なる『ハシケ』数艘(すうそう)ありし位なれば、到底纏(まと)まりたる部隊を渡すを得ず。」として、戸の口から迂回して笹山に現出したのだろうと推測する。
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 また、この案内板の下に小さな案内板があって、以下のように案内される。
 白虎隊奮戦の地・碑のいわれ
 戊辰の役 東西両軍戦死九十八人柱
 発起人は土佐出身の遊行僧結城浩師。
 昭和28年から5年間も全国を托鉢行脚を重ねて資金を提供。全会津有志と強清水村青年団の奉仕活動で昭和33年に落成法要を施行。
 因みに白虎隊士中2番隊士は、此処より2㎞も西の赤井谷地周辺で戦っている。


 「因みに白虎隊士中2番隊士は、此処より2㎞も西の赤井谷地周辺で戦っている。」の表現が気になるところかな。ただ、その情報もあるのだが、この辺りから引き返すという「会津戊辰戦争」の図も見る。
by shingen1948 | 2013-09-10 05:40 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)