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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大河ドラマ視聴「八重の桜」~ 第35話 「襄のプロポーズ」

 大河ドラマ視聴「八重の桜」~第4話「妖霊星」の整理の時に、今まで、この時代を彩る会津女性として余り目立った存在ではなかった方を確認した。その中に、八重の幼馴染の高木時尾さんと山川二葉さんについての確認があった。
 http://kazenoshin.exblog.jp/17234310/
 ドラマの今話では、その時尾さんが、夫となった元新選組の斎藤一を伴って、八重に会うため京都にやってくる。

 これより先、ドラマでは、山川健次郎氏がエール大学で学んだ後、帰国した時期の山川家の様子を描くという設定で、主たる方々のその後消息が整理されていた。
 健次郎氏については、先に秋月悌次郎氏の整理の中で、奥平氏に託されるあたりを整理していた。
 ドラマの中で、山川大蔵(浩)氏が負傷して左手の自由を失った様子が描かれる。
 これは、明治6年(1873)陸軍少佐となり、熊本鎮台へ移って明治7年(1874)に勃発した佐賀の乱で活躍、明治10年(1877)西南戦争の熊本戦で負傷したという経歴とのかかわりらしい。
 山川健次郎氏の帰国は、実際は明治8年(1875)らしいので、微妙なズレはあるかな。
 ドラマ後の氏は、東京帝国大学で物理学を教えた後、東京帝国大学、京都帝国大学、九州帝国大学の総長、私立明治専門学校(九州工業大学)の総裁、旧制武蔵高等学校(武蔵大学)校長となるという経歴になるようだ。

 ドラマでは、これより前に、明治4年津田梅子さんと共に欧米使節岩倉大使一行と渡米した山川咲子(捨松)さんが、留学先で新島襄氏と会話する様子が描かれていたが、これも山川家の話。
 この咲子(捨松)さん、大人びて描かれたが、この時11歳だ。幼いからこそ、その苦労に堪えられたといわれているらしい。
 彼女は、初のアメリカ大学卒の日本人女性として、(卒業後コネチカット看護婦養成所で看護婦免許を取得した後)、明治15年(1881)に帰国する。ただ、当時はアメリカ帰りの女性が活躍する場はなく、大山巌氏と結婚するようだが、この事がその後の活躍とつながるきっかけにもなったようだ。
 これから、大山元帥夫人としての奉仕活動で、日本赤十字婦人会の設立の発起人となり、日露戦争では、銃後の愛国婦人会理事として活動するらしい。
 「八重の桜」ドラマ解説に、八重さんが和製ナイチンゲールと呼ばれるようになるとの設定があるようなので、その交流との伏線でもあるのかなとも思う。

 ドラマの概要については、エキサイト「大河ドラマ 八重の桜」のページから、第35話「襄のプロポーズ」の粗筋をお借りする。
 http://tv.excite.co.jp/detail/nhk_taiga52/story_35.html
 「襄のプロポーズ」
 八重(綾瀬はるか)は、襄(オダギリジョー)からの突然の求婚に戸惑っていた。そんな八重のもとに、時尾(貫地谷しほり)が藤田五郎(=斎藤一・降谷建志) を連れてやって来る。幼なじみとの再会を喜んだ八重は、さらに2人が結婚したことを聞いて驚く。
 しばらくして、東京で裁判を受けていた尚之助(長谷川博己)が肺病で死去したという知らせが届く。襄は悲しみに暮れる八重を人力車に乗せ、八重の弟・三郎(工藤阿須加)が「鳥羽・伏見の戦い」で戦死した場所に連れて行く。激しく動揺する八重に、襄はこの場所に連れてきた理由を話す。襄の優しさに触れた八重は、彼のプロポーズを受け入れる。

by shingen1948 | 2013-09-08 05:31 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)