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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大河ドラマ視聴「八重の桜」~ 第29話 「鶴ヶ城開城」⑨

 容保公が、戦いを続けた大義は、京都守護職として孝明天皇の警護をし、信頼を得ていたのに朝敵とされることだ。「鶴ヶ城開城」を決意するのは、このまま戦闘を続ければ王師に対抗すべき状態に陥ってしまう。この大義が開城理由の全てなのだと思う。
 その開城する事の決断によって、「藩士祖先の祭祀(さいし)を全うせしめ」、「人民塗炭(とたん)の苦みを救わんとす」ることになるという見通しだ。
 多分、会津藩主の行動は、状況や心情的にどうであろうと、大義によって規制されるものなのだろうと思う。
 ただ、大義によって行動し、その心情や状況と遊離した姿は、現代の感覚から見ると滑稽でもあるのだろうと思う。良し悪しは別にして、これが専門家の山村竜也氏の商売感覚と結びついて、茶化して面白おかしくクイズに仕立てたということなのだろうと思う。
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 「会津戊辰戦争」に「桐野利明城兵の勇敢に驚く」の項に、そういうネタ探しの感覚でみれば面白い情報もある。開城にかかわる式は、宮泉酒蔵のそばの路上で行われたようだが、その西軍の主役である軍監中村半次郎即ち後の桐野利明にかかわる情報だ。
 文学博士塩谷温氏が会津中学で講演した内容として以下の紹介。

 当鶴ヶ城開城の際、軍監中村半次郎即ち後の桐野利明、城受取りの大任を終わり人に語って曰く、予は今日位苦しき日に逢いたることなし。元来、予は人を斬り人を斃す(たおす)術を知るも、学問にに至りては固(もと)よりその必要を感せしことなく、つまり書は以て姓名を記すに足るなど、豪語し居たりしが、今日という今日は、懺汗(ざんかん)骨に徹し、差出されたる書類を見て、何が何だか少しも判らず、従容自若(しょうようじじゃく)をよそほえども、心中の苦しさ殆ど卒倒せん許りであった。
 此時若し予が日本外史を素読し得る位の能力もありしならば、心中何らの不安なかりしならんに、それさえ出来ずはほとん。殺すの(余は)漸(ようや)く虚威(きょい)を示したるに過ぎざりしは遺憾なりしと。
 又、式後城中に入り、天守閣の弾痕無慮なるを見、再び愕然として城兵の沈勇剛毅な利子に驚き嗟嘆(さたん)良々(やや)久しうせり云々と。

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 宮泉酒蔵のそばに、「会津戊辰戦争終結の地」の案内板が建ち、そこにその軍監中村半次郎即ち後の桐野利明の堂々とした図が掲げられる。平静を装ってはいたが、本当は、半次郎さん、差出された書類を見て何が何だかさっぱり分からずどぎまぎしていたということ。これが、茶化した見え方かな。


 
会津戊辰戦争終結の地
 泣血氈(きゅうけつせん)の誓い
 明治元年(1868)9月22日、1ヶ月の籠城戦に耐えた鶴ヶ城に、遂に降伏の白旗が掲げられ、会津戊辰戦争は終結しました。この日の正午、錦旗を擁した西軍の軍監・中村半次郎等を迎え、降伏式が行われました。
式はここ甲賀町通りの路上で行われたのです。
 式場には、薄縁という畳表に縁布を付けた物を敷き、その上に15尺4寸四方(約4.5m)の緋毛氈が敷かれました。
 その上で、松平容保・喜徳公父子によって降伏の調印がなされました。それは、天皇家に忠誠を尽くした会津が逆賊の汚名を着せられての敗戦でした。
 終了後、会津藩士たちはこの日の無念を忘れぬために、その場に敷かれた緋毛氈を小片に切り刻み、おのおの懐中深く持ち帰ったといわれています。
 後にその毛氈は「泣血氈」と呼ばれ、会津人の心の奥深く刻み込まれる事となりました。

 明日よりは いづくの誰かながむらん なれし御城に残す月影
 開場前夜 山本八重子 詠
 (後に同志社大学創設者・新島襄の妻となる)

by shingen1948 | 2013-09-07 07:48 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)