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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

大河ドラマ視聴「八重の桜」~ 第29話 「鶴ヶ城開城」⑧

 大義として「鶴ヶ城開城」以外の選択肢がなくなるのが、「風に聞く(米沢藩兵より)錦旗領内に臨むと」ということで、これが、「会津戊辰戦争」の「仁和寺宮は既に錦旗を進めて塔寺に入り給ふと聞く」という情報ということのようだ。
 ドラマで描かれたように、錦の御旗は、岩倉と示し合わせた大久保利通らが作ったもので、この時点で明治天皇の裁可を得たものではない。ただ、鳥羽伏見の戦いで、薩長の勝利で、開戦二日目の1月4日には、正式に仁和寺宮嘉彰親王に与えられている。
 この時点で、薩長の西軍が新政府軍の官軍となったということだ。

 「会津戊辰戦争」では、「著者曰く」の以下の注釈を付ける。
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 錦旗の入りしは塔寺にあらず。気多ノ宮遠藤清記方なり。仁和寺宮は、小松宮彰仁親王なり。
 気になるのは、その前半「錦旗の入りしは塔寺にあらず。気多ノ宮遠藤清記方なり」とする。しかし、その遠藤家の写真も掲げられが、その注は「仁和寺宮錦旗を擁して派入り給ひたる塔寺村遠藤邸」。「塔寺にあらず」としながら、その注では塔寺村と断わっている。
 多分、気多ノ宮遠藤清記方は、現時点でも特定できるはずだと思うし、地史家はその事はご存じのはず。それでも、その表現は大概が「塔寺」、或いは束松峠を越えたとする。
a0087378_854627.jpg 後半の「仁和寺宮は、小松宮彰仁親王なり」は、上記「仁和寺宮嘉彰親王」であり、奥羽征討総督として官軍の指揮を執った方。
 この方、明治7年(1874)に勃発した佐賀の乱においても征討総督として、明治10年(1877)の西南戦争にも旅団長として出征される。この「会津戊辰戦争」が出版される時点では、それぞれを鎮圧したお陰で、明治14年(1881)に家格を世襲親王家に改められていたという状況。

 そして、山川浩・健次郎兄弟の思想的な論理的骨格は、「会津は朝敵にあらず」の主張。その象徴が孝明天皇の信頼ということで、この「会津戊辰戦争」も「孝明天皇御製」を掲げる。
 この事は、昭和3年の松平勢津子の皇室輿入れによって、その目的が達成され、昭和12年5月に若松で行われた徳富蘇峰の講演「維新史に於ける会津」によって集約・完成されるとされる。
 ただ、それは一つの側面で、もう一面として、会津武士道が国是として賞揚賛美されて、新政府軍が構築した昭和前期から戦中にかけての時代風潮づくのに利用されるという側面もあるようだ。
 郷土意識の顕彰気運と相まって、一般会津市民の意識もこの流れの中で、観光地化しているという側面も見える。
by shingen1948 | 2013-09-06 08:57 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)