地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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城南豊岡④~日光東照宮の御神体城南豊岡安置情報

 日光東照宮の御神体は、7ヶ月間にわたって奥羽地方を動座するようなのだが、幕軍の決定容認事項だったという情報もあれば、いろいろな立場の方々が、「我々に相談も無く」と怒ったという情報も交錯していて、その評価や思惑はよく分からない。
 ただ、その情報をつないでかかわりを年表で確認していくと、戊辰戦が宇都宮に迫る<明治元年(1868)4月22日宇都宮城の戦い>の頃、日光東照宮御神体が戦火を避けて会津若松へ動座する<4月26日>。先に整理したように、会津若松に到着し、鶴ケ城三の丸南方に鎮座するのが、閏4月5日ということになるようだ。
 「會東照大権現」のページに、その六方越え〜若松への道筋について、供奉した以下の神官の談話があるらしいという情報を見つけた。
 http://www.geocities.jp/aogiri40/2426.html
 会津迄の御道筋は、御殿より大楽院に下り、それより本宮(神橋北)の方に向って進み、本宮の辺より間道を東に進み、律院(←興雲律院)の方に行き、それより外山のすぐ東を経て六方沢を通り、栗山のオロ(日陰)に出て、日向に行き、此の地の竜蔵寺に宿す。翌日西川を出て一宿、五十里川の合流する所に出て、会津街道を進む。五十里に一宿す。民家なり。当時此の地に関門あり。負傷兵の往来あり。甚さわがし。翌日此の地を出発、三依(←みより)に行き、横川の問屋に宿る。翌日山王峠に出て、田島に一泊す。田島は五万石の支配する所故役所あり。役所と問屋に分宿せるなり。御神体は役所に奉安す。翌日田島を出て、或川を船にて渡り、某所に一泊す。翌日は火玉峠にかかる。峰に駄茶屋あり。ここより若松城よく見ゆ。之より下り、本郷に一泊。翌日若松城の三の丸の東照宮に至り、此の宮に奉安し奉る。此所に延寿寺あり

 慶応4年(1868)幕府軍が日光に逃げ込んだ翌日、東照宮別当大楽院貞侃は、ご神体と家康遺品の神宝を捧持して日光山を脱出<4月26日早朝>。会津兵に守られて、六方沢越えの間道を抜けて、会津西街道に出ようとしたようだ。その時間的経過も加えてみる。
 閏 4月1日に、六方沢を越え、栗山郷日陰村を経由、日向村を経て五十里(現 藤原町)に入る。ここの民家に一宿。
 閏 4月2日、三依→横川村に入る。ここの問屋に宿る。
 閏 4月3日、山王を越え会津田島に入る。役所と問屋に分宿。御神体は役所に奉安。
 閏 4月4日 或川を船で渡って、某所に一泊。火玉峠(後氷玉峠の呼称)を越えて、本郷に一泊。
 閏 4月5日若松城三の丸東照宮に安置。
 ここで、延寿寺があることに拘るのは、東照宮の別当寺として天台宗の寺があることの拘りだと思う。

 その後の閏 4月17日会津藩主松平容保の拝礼、6月17日輪王寺宮公現法親王(北白河宮) 拝礼は先に整理した。
 その後、8月23日に新政府軍が会津盆地に迫ったために、御神体は、再び米沢を経て、山形城下に動座される。それ以降の情報は、鬼怒川御苑社長山下勝明のひとりごと「東照宮 御神体動座の謎」から
 http://gyoen269.blog106.fc2.com/blog-entry-147.html
 9月14日、御神体は、山形立石寺(山寺)に到着。10月8日、立石寺から仙台仙岳院に移動。10月28日、日光に還座の為移動。10月29日、日光に7ヶ月ぶりに還座、安座式という経緯らしい。
by shingen1948 | 2013-09-03 18:16 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)