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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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城南豊岡②

 「会津戊辰戦争」で、「市民此の霊場を知らず」とぼやいた、「権現下郭」という地名で呼称されていた郭内部分の話の続き。
 江戸・明治初期には、南町口から東側の郭内を「権現下郭」という地名で呼称されていたらしいのだが、その地名は、権現下郭の東側城南豊岡に鎮座する熊野権現社に由来するのだという。
 郭門天神口の別名は、熊野口なのだが、これもその由来が、その熊野権現社であろうと想像される。その熊野権現社が絵図の中のどれなのかは分からない。
 検索して行くと、「旧事雑考」に「久寿元年(1154)黒川(会津若松市)の延寿寺の熊野宮に神器が納められる」とあるらしい情報を目にする。また、「目で見る 熱塩加納村の文化財」にも、「久寿元年(1154)会津黒川熊野宮別当天台の徒、延寿寺宝器時の大主半在家に住む正四位下行美濃守藤原家長納む」という情報が見える。このことから、天台宗延寿寺が、この熊野宮の別当なのだろうことが想像される。
 「会津戊辰戦争」では、その延寿寺を「松平家類代の遙(よう)廟所にして、曩に(以前に)輪王寺宮公現法親王(北白河宮)を迎え奉りし史的境内なり」と紹介している。これらの事と天台宗延寿寺が「会津若松城下地図」に200石である事を記すことと重なるのだろうと思う。多分、檀家を持たない寺なのではないかな。

 ここには、この他に東照宮と豊岡神社の施設があるのだが、その紹介は「地名辞典」の「権現下郭」の項に見つけた。
 豊岡神社は、「正覚寺の跡地で,保科正之・正容・容貞を祀っている(新編会津)」と紹介される。その前に「保科氏入部当初の寛永20年頃は,上倉の方は米蔵,下倉の方は浄光寺であり,下倉が見えるようになるのは享保18年の絵図以降である(会津若松史2)」と紹介されている事も考慮すれば、豊岡神社が建つ前は、米蔵(下蔵)の位置には浄光寺があり、豊岡神社の位置には正覚寺があり、そして、東照宮と熊野権現社の別当寺としての天台宗延寿寺があったという配置だったのだろうと思う。
 ここら一帯が寺町で、「会津戊辰戦争」がいう「湯川の清流に臨み、老樹(ろうじゅ)鬱蒼(うっそう)として昼尚暗き荘厳(そうげん)なる霊域にして建築壮麗(そうれい)なる東照宮あり。延寿寺あり……」という雰囲気の場所だったのだろうと想像する。
 また、この時点で、延寿寺は「会津戊辰戦争」がいう「延寿寺は松平家類代の遙(よう)廟所」だったのだろうと思う。
 その正覚寺の跡地に、豊岡神社が建設され、保科正之・正容・容貞が祀られたということで、天台宗延寿寺の遙(よう)廟所としての機能の一部も担ったのではないかなと想像する。この情報が、会津藩主は先祖を大切にし、その月命日には、必ず供養をしたという情報と重なるのかなと思う。

 その建設時期のヒントになるのは、東照宮は、江戸期に蒲生忠郷が勧請したもの、豊岡神社は、加藤氏・保科氏とも社領200石を寄進したものとあることかな。
 ここに、「会津戊辰戦争」の「輪王寺宮公現法親王(北白河宮)を迎え奉りし史的境内なり」ということが重なるのだろう。
 最近、ここではふれられていない東照宮にかかわるニュースを目にした。ここに本家の日光東照宮の本尊が鎮座したことがあったり、ここの本尊が日光東照宮に現存したりするのかなと思わせる情報だ。
by shingen1948 | 2013-08-31 05:48 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)