人気ブログランキング |

地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30

城南豊岡

 「会津戊辰戦争」で、「市民此の霊場を知らず」とぼやくのは、江戸・明治初期に「権現下郭」という地名で呼称されていたこの部分のことらしい。
 気になる空間ではあるが、確かに知らない。大河視聴にかかわって確認したのは、八重が入場する三の丸南門の通り道であることと、小田山砲撃とのかかわりで砲台を設置した事位かな。
a0087378_17552260.jpg【東邦銀行配布地図より】
 著者曰く。
 天神橋は、今の城南豊岡より年貢町天神祠に通ずる単木橋の在る處なり。
 聞く当時豊岡は湯川の清流に臨み、老樹(ろうじゅ)鬱蒼(うっそう)として昼尚暗き荘厳(そうげん)なる霊域にして建築壮麗(そうれい)なる東照宮あり。延寿寺あり。延寿寺は松平家類代の遙(よう)廟所にして、曩に(以前に)輪王寺宮公現法親王(北白河宮)を迎え奉りし史的境内なり。然るに、今に至るも何ら記念すべきものなし。其の東側三味線堀附近は籠城中唯一の砲兵陣地にして山本八重子の如き婦人ながら砲兵を指揮して難戦苦戦せし跡なるに市当局之を火葬場とせしは子弟の教育上利害果たして如何。又之に通ずる南方天神橋30有餘の忠魂を宿せし所なるも、毫も(ごうも=少しも)往時の俤(おもかげ)を止めず。従って行人稀(まれ)にして、弔ふ(とむらう)の士なきに至りしは、原因那邊(なへん=何処)にありや。
 「其の東側三味線堀附近は籠城中唯一の砲兵陣地にして山本八重子の如き婦人ながら砲兵を指揮して難戦苦戦せし跡」は、小田山砲撃とのかかわり、「之に通ずる南方天神橋30有餘の忠魂を宿せし所」は、天神橋の戦いのかかわりの中で確認している。
a0087378_1811682.jpg 
 著者が気にする事で、確認できていないのが、「曩に(以前に)輪王寺宮公現法親王(北白河宮)を迎え奉りし史的境内なり」とあること。

 「会津戊辰戦争」では、富岡延寿寺跡の写真の中にも、「上野輪王寺宮の入り給(たま)ひたる富岡延寿寺跡」との注釈が入る。
 もっと気になるのが、そもそもここはどんな空間だったのかなという事。
 そのことにかかわっては、「富岡は湯川の清流に臨み、老樹(ろうじゅ)鬱蒼(うっそう)として昼尚暗き荘厳(そうげん)なる霊域にして建築壮麗(そうれい)なる東照宮あり。延寿寺あり。延寿寺は松平家類代の遙(よう)廟所にして」とある。
 原風景とのかかわりで、三味線堀附近に火葬場があったかどうかの記憶はない。
by shingen1948 | 2013-08-30 18:03 | 大河「八重の桜」視聴記録 | Comments(0)